映画が教えてくれた事。

 3D映画というものは左右の視角差で脳を誤魔化して遠近感を感じさせる。勿論、スクリーンやテレビ画面の距離は一定だから、視角差で遠近感を誤魔化しても水晶体の厚さは変わらないから、脳は違和感を感じているはずだ。だから私はNHKスタジオパークで3D画像を見ただけでも疲れて横になりたくなる。
 『ゴロ寝テレビがあなたのスタイルでしょ。だから左右の視力も違うのです。』と女房に突っ込まれそうだけど、そうはいってもゲーム機でもテレビでも映画でも3D画像は幼児に見せない様に注意書きがあるのは視覚や脳に良い影響を与えないからでしょう。
(私はゲーム機自体が子供の発育に良い影響があるとは思っていないけど)
 
 そんなこんなで、3Dで有名な映画『アバター』は見なかったが、ついにDVDで観てしまった。(勿論2D版)
 冒頭の数分で、これは50年ほど前に読んだ木星で自活し探査する人工生命体のSF小説の焼き直しだと感じ、結末は判ってしまった。また、植物が惑星全体の調和をつかさどる部分も、植物だけの惑星のSF小説だなと感じた。
 これほど強力な神が地球にも存在したら地球も平和であったろうと思う。とにかく惑星の全動物が地球人の攻撃に反撃する様はハルマゲドンを予感させた。その後の平穏も最後の審判を受けた後の神の王国を思わせる。
(これほど根深く人間を洗脳する宗教の恐ろしさも同時に感じてしまった・アメリカ映画のほとんどは聖書を下敷きとしている)
 
 さて、映画は私に様々な事を教えてくれた。『イージーライダー』も自由というものの概念を教えてくれた。若い頃には自由に憧れるが、自由とは他人に不自由を強いてはならない事をそれとなく教えてくれた。
 自分勝手な自由というものは、他人から見れば無軌道な厄介者であり、迷惑を受けた他人には排除する自由というのもある。すなわち、自由を唱える者は自分以外の人の自由も許容しなければならない。すると、おのずとルールというものが必要である事が判る。そこに道徳や宗教というものが生まれたと思う。
 
 『踊るマハラジャ』では、金持ちが聖者に「私は金持ちなのに誰も尊敬しない。」と言うと、聖者は『施しをしなさい。』と答える。私は握りしめた手を開かない奴は信用されない事を覚えた。
 『アバター』でも西欧人は握手好きで右手だけは開くが、左手までは差し出さない。左手の拳には武器が握られているのかもしれないし、大航海時代以降の西欧人はいつもそうしてきた。相手の前で合掌する東洋人のなんと奥ゆかしい事か。とはいっても、東洋人も合わせた手の中に武器を隠し持っていたりして。
(日本人はもっと恐い・何しろ武器をのんでいるから)