法具は武器。

 最近、空海がはやっているらしい。憤怒の仏像は空海が連れてきたそうだが、まあ、親が子を叱る様なものと、とりあえず許容しよう。許容できないのが法具である。デフォルメされたといっても独鈷の類はまさに槍であり、その他の法具も武器もしくは武器に転用できる。
 数珠は手に掛けて合掌する。そして武器を持たぬ無防備な姿に油断して近づいた敵の目を数珠で打つ。目と金玉はどんな事をしても鍛えられないといい、実戦ではともかく、スポーツでも武道でもそこへの攻撃は禁じられている。
宗道臣の広めた少林寺拳法には数珠のワザがありま~す)
 錫杖(しゃくじょう)は長い柄の先に鉄輪(かなわ)が数個付いている。用途は歩く時の杖であるが、地面に錫杖を突き鉄輪が音をたてる事で藪に潜むコブラなどの蛇は逃げていくといわれる。だが、身の丈ほどの鉄棒もしくは堅木の杖の先端に鉄輪が付いているのである。武器になりえないわけがない。
 数珠はともかく、錫杖ならたとえ堅木製であっても確実に人間は殺せる。達人の持つ木刀は真剣と同じと言われるが、錫杖は槍に匹敵するかもしれない。
 
 人間とは様々な考えを持つ生き物であり、宗教も入った者だけを守る生命保険みたいである。そして、入らない者や、教義から外れた人は邪教徒として放り出す非情さを持っている。憤怒の形相の仏像も信じぬ者を恫喝している様に見えるのは私だけだろうか。
 哀しい事ではあるが、意見の異なる人間を服従させる最終手段は暴力しか無いらしい。そんな目で見ると、三十三間堂の仏像の集団は軍隊に見えてくるし、キリスト教の天使は神の軍隊であり、ハルマゲドンは神と悪魔の最終戦争といわれている。
 それだけを見ても、神は人間が創造(想像?)したものである事が判る。その点では、映画『アバター』の植物群は人間の創造した神よりも数段は優れている。
(内蔵助は本当にへそ曲がりですね~・自戒しても直らないので困っていま~す)