イドの魔物。

 SFマガジンが創刊された頃『イドの魔物』という言葉がよく使われた。いま覚えているSF映画『禁断の惑星』もそれをテーマとしていた。
 紳士的な博士の住む楽園の様な惑星に地球からの探検隊が到着するが、目に見えない怪物が探検隊を襲う。それは博士の意識下の超自我の憎しみや妬みなどが具象化した惑星エネルギーの怪物で、博士自身にも制御ができない。最後は惑星のエネルギーが暴走して惑星が爆発してしまう。そんなストーリーだった。
 
 当時、人間たる理性と、動物としての本能と、自分でさへ意識しない超自我のうち、どこまでが遺伝されるのかという論議があった。
 人間が進化して理性が発達したとしても、その下層に本能や超自我が存在し、時にそれが理性をしのいでしまう事がある。
 
 たとえば、笑いの根本は優越感を感じた時の反射的情動だという解釈がある。動物に笑顔があるか否かは別として、動物も優位に立つと気分が良くなるらしい。
 2011年11月7日のブログ『熊よけの鈴』で、私がカモシカに睥睨された様に感じた事を書いたが、私より優位な立場にいたカモシカは多分気持ちが良かったのではないかと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/kuranosuke_taira/26946665.html
 
 その様な理性よりも下位にある情動で、私達はいとも簡単に『差別』という行為を行ってしまうのではないだろうか。
 多分、自己の優位性を意識した時点で気分が良くなるのだと思う。ゆえに、その気分を味わいたいがためにわざと差別を行う事もあるだろう。だから、差別はなかなか無くならないのだとも思う。
 
 もし、SEXに快感が伴わなければ誰もSEXをしなくなり、種の存続は不可能になってしまう。SEXほどではないにしても、優越感を感じた時の気分の良さは生物の進歩に寄与してきたと思う。だが、もしそうであれば『差別』を一掃するするのは困難である。
 とはいえ、差別された側の気分の悪さを考えれば、その様な下層の情動のために他人を不愉快にさせる行為は理性で無くしたいものである。
 だって人間だもの。アッ間違った。『だって(理性ある)人間だもの』でなくっちゃ。(理性を失った人間は裸の猿?)