なぜか判ってしまう長男長女。

 若い頃に不思議だと思っていた事は、長男でない事を言い当てられてしまう事だった。だが、自分も歳を重ねると『こいつは長男かもしれない』とか『このこは長女だな~』という雰囲気がわかる様になった。
 それは、家族の中での兄弟姉妹の子供社会で染み付いた上下関係を残したまま大人になるからで、社会人となっても長男長女には何となく長男長女臭さが残っているのだ。
 
 だが、いつの頃からかその識別が怪しくなってきた。それは、第二次ベビーブーマー達が社会人になった時であった。
 第一次ベビーブームは戦後に復員した時代に生まれた子供達で、現在とは違い比較的兄弟姉妹の数が多かった。また、兄弟がそれぞれ子供部屋をもらえる様な時代ではなかったので兄弟間の関係が密で性格にも影響を与えやすかった。
 
 そんな第一次ベビーブーマーが中卒で『金の玉子』ともてはやされて就職したり、進学しても高校までが多く、大学への進学率は低かった。そして、第一次ベビーブーマーが苦労の末に結婚して子供をもうけた時には、大学への進学率が高まっていた。
 下積みで苦労した親にとっては、子供には子供部屋を与えて自分よりも良い環境で育てたいとか、自分よりも高い教育を受けさせたいと願った。経済負担からもそれらの願いは必然的に少子化の方向に向かった。
 多分、そんな影響からか2人くらいの子供が子供部屋を貰うと、長男長女の識別は難しくなった。その反面、時に子沢山の家庭で育ったかどうかはわかる様になった。
 
 子供は兄弟と濃い生活をする事により基本的な社会関係を学ぶ気がする。だが、弊害もある。私も兄弟姉妹が会えば『あの時はひどく殴られた』とか『危ない事ばかりするので気をもんだ』とかの話が出てくる。
 周りから見れば50年も60年も前の話なのだが、兄弟姉妹はそんな時間をワープしてしまう。そして、それぞれが家庭を持つと、兄弟姉妹でも『隣のバラは赤い』ではないが、生活に追われて、ねたんだりそねんだりしたものだが、歳を経て今はそれぞれが歩んできた人生の余った時間を生きている。
 
 そんな風に思ってみても、私の長兄はお茶菓子も持たずに私の家に来るし、物をあげてもお礼の言葉は下手糞だし、物を出すのも下手糞である。それに『ああだこうだ』と仕切りたがり、その上『兄貴』と立てないと機嫌が悪い。
 私もいい歳になったのだが、そうする方が一番もめない方法でもあるわけだし、あえてもめる必要もない。唯一つ思っている事は(兄貴よりは長生きしてやろう)くらいである。