参議院を解体すべしと叫ぶ愚かしさ。

 日本には衆議院参議院がある。ただ、戦後のいつの頃からだったか参議院の存在感が薄れ、現代では参議院不要論や1院制にすべしとの声も聞かれる。
 元々、参議院良識の府と言われていたが、衆議院と同様に政党所属の議員が増えるにつれて政治家の品格が失われ、政党の党利党略のお先棒を担ぐ小粒な政治家が増えた。
 現代の参議院政党政治家が衆議院になるための予備校の様になってしまった。
 
 古来より政(まつりごと)は、力のある者が自由にできるというのが本質である。ゆえに、初めは王が政(まつりごと)をつかさどったが、国家が巨大化すると王を取り巻く特権階級(貴族)が政(まつりごと)に口をはさむ様になった。
 続いて、貴族を支えていた武力集団が力を蓄えると、武人が政(まつりごと)にかかわる様になり、武人の政(まつりごと)の下で商人などの平民が財力を蓄えると、平民が政(まつりごと)にかかわる様になった。
 しかし、政(まつりごと)にかかわる人間が多くなると、利益の合致する者たちが徒党を組み、政党が生まれる。すなわち、政党の本質は利益集団なのだ。ゆえに、利益集団である政党は目先の利益に動かされる。結果として、国家百年の計を考える政党など無いのだ。
 その様な政党政治の行き詰まりが、私には現代の日本政治の様に思えてならない。結論を言えば、衆議院不要論や一院制を叫ぶ政治家は百年の計を考えられぬ小粒な政治家という事になる。
 
 現在の議会制民主主義が必ずしも最良の民主主義の方法であるとは限らない。現在の人気取りの様になってしまった選挙による民主主義は、より良い政治形態への通過地点かもしれないのだ。
 現実として、国家百年の計よりも党利党略に走り、短期的な目先の利益で有権者の目を奪って政治を我が物とする現代政党政治は、選挙制度のルールの上に咲いたあだ花の様に見えなくもない。
 現在の日本の政治はどの政党が政権を摂っても、百年の計にはほど遠い様な気がする。すなわち、現在の選挙制度で当選しようと思えば利益を語る事が多くなり、苦労が伴うかもしれない百年の計など語られないのだ。
 
 日々、どんなに良い行いを重ねても百年の計という設計図の無い積み重ねでは、種々の歪みから完成後の姿は異様なものになってしまうかもしれない。
 明治以降の日本には、西欧先進国という見本があった。しかるに、追いつけ追い越せは『富国強兵』の掛け声の下で、軍国国家という歪んだ形を生み出してしまった。
 太平洋戦争後の日本は民主的で豊かなアメリカという見本を追いかけた。しかし、それも世界第二位の経済大国となった時、アメリカの中の矛盾に気づかされた。
 そして今。日本の未来として目指すべき国は世界に存在しない。民主主義と見えたアメリカは金がもの言う資本主義の国であり、労働者の国家と見えた共産中国は旧来の皇帝が共産主義の衣を羽織っただけの国という事も判った。何よりも、日本に道徳を教えた中国の道徳観の低下は、昔日の礼節が虚しく見えるだけになってしまった。
 
 豊かになったが、その豊かさは格差をもたらした。何でもできるはずの現代は何を行うかの目標を失い、少年少女は実業で身を立てるよりも芸能で身を立てようと考える様になった。すなわち、現代は百年の計を説く者がいないため、国民全体が実業に目標を立てるのが難い時代となってしまった気がする。
 せめて、立候補年齢の高い参議院くらいは、政党にとらわれる事なく百年の計を説ける政(まつりごと)の府にしたい。選挙方法だって選挙カーによる政党理念の選挙戦でなく、百年の計の論による方法を模索しても良いと思う。
 そうすれば『参院不要論』や『1院制』などと百年の計を考えられない者どもが騒ぐ事も無くなるのではないのだろうか。また、候補者が政党と無関係であれば党利党略にとらわれる事なく国家百年の計を考えられるというものだ。