なぜ国家は『親のために死ね』と言うのか。

 7月24日のブログ『常識はミクロとマクロで変わって当然?』の中で、『臣民は天皇陛下の赤子である。天皇陛下のために命をささげよ』と戦前は教えられていたと書き、実の親子であれば絶対にそんな事は言わないという意味の事も書いた。
 では、なぜ国家は国民に死を強要するのでしょうか。しかも親子関係を持ち出してまで。
 
 現代日本でこの様な親子関係を用いるのは、主に893関係かもしれません。ミクロとマクロでまったく逆の事になる親子関係とはおかしなものですが、親子関係になぞらえた言い方は、多分、武家社会で使い、広く知られていた事だと思います。
 なぜ武家社会がミクロとマクロで矛盾するのに親子関係を用いたかは、多分、上下関係がハッキリ判るからだと思います。すなわち『親が上で子が下』とか『兄貴が上で弟が下』と習慣の中で上下関係が判りやすかったからでしょう。
 『子は親のために死ね』もそんな中で生まれてきた言葉なのだと思います。
 
 上下関係を親子で言い表すものの、所詮は義理の関係。力の強い者が弱い者を庇護し、利便を与える代わりに、命の担保を取ったという事なのでしょう。
 たとえば、実の親ならば子供にお金を貸すのに担保も借用書を取りませんが、他人からお金を借りるには担保も借用書も用意しなければなりません。
 すなわち、力の武家社会の協力関係では下の者は命を担保にしたのです。そして、上下関係が感覚的に判る親子兄弟になぞらえたものだから『子は親のために死ね』が出てきてしまったのでしょう。
 
 私は『国』を守るために命を懸ける事ならすると思いますが、『国家』のために命を懸ける気などありません。国は日本の自然の国土ですが、国家は権力者です。現在の権力者は自民党であり、極言すれば安倍首相です。私は安倍君に義理を感じませんから安倍君のために死ぬ気はありません。
 『国と国家』これも『子は親のために死ね』と同様、混用されると、あってはならぬ事が通ってしまう危険な言葉です。
 『国と国家』の違いについて興味がございましたら、2012年11月15日のブログ『国と国家』そして『民族と部族』をご覧ください。