思い出したくもない悲惨な記憶。

 若い人達も使う言葉かどうか判りませんが、私くらいの年齢の人間は『にわか成金』とか『成金』という言葉をよく使いました。
 私の叔父も戦後の一時期『にわか成金』でした。戦後の混乱の一時期は物も無ければプライドも無い時代で、軍部が隠匿した物資の横流しや、進駐軍が放出したり兵士が倉庫から盗み出した物資を右から左に流すだけでお金になりました。
 
 叔父はそんな犯罪的行為で小金をため、それを元手に小さな会社を興しました。物の無い時代でしたからその会社も大当たりし、叔父は『にわか成金』になりました。
 ところがです。叔父はブローカーといえば聞こえが良いのですが、盗品売買の闇屋時代の話を嫌いました。それは社長になった自分の暗部の過去なので思い出したくなかったのです。
 
 人間は誰しも心に持つ傷には触れられたくないし、触れられれば屈辱的記憶の滓に押しつぶされそうなほど苦しみます。他人に心をかき回され、湧き上がった屈辱の滓が落ち着くには時間がかかり、その間ズ~ッと苦しまなければならないのです。
 慰安婦問題などはその最たるものでしょう。橋下およびその一連の輩(ほぼ男性だが時に女性選良も含まれる)は、何の解決策も持たずに慰安婦問題に触れます。
 なぜ自分にも触れられたくない心の滓を持つ人間が他人の心を意図的にかき回すのでしょう。
 橋下は先祖が被差別部落出身であった事に激昂し、石原は4男がオウム真理教の絵描きであった事に激昂します。法律家であるならば、修身を習った者ならば『弱者救済』や『己の欲せざるところは人に施す勿(なか)れ』(「論語‐衛霊公」の「其恕乎、己所レ不レ欲、勿レ施二於人一」による)を知っているはずです。
 
 実は私。5月16日のブログから、こんな一連の話は書きたくなかったのです。なぜなら、自分の心に沈めた滓を自分でかき回す事になるからです。
 私の思春期は嵐の時代でした。オチンチンがオシッコだけのものでない事を知り、たとえ自慰であっても快感を知り、女性が欲しくて欲しくてたまりませんでした。
 でも、たとえ赤線・青線があったところで、働きもしない貧乏な小僧には無縁でした。実態とすれば、赤線・青線の利用者の多くは所帯持ちだったのです。
 結局は、SEXを知らない小僧が慰安婦問題を口にするのではなく、知り尽くしたスケベで汚れきった大人がそれを口にするのです。そして、それを口にする大人は自分自身の滓を恥とも思わない破廉恥で恥知らずな輩(やから)なのです。
 
 最後に、NHKのニュースで兵隊経験者が『特攻隊の若者が慰安所に通ったでしょうか。ほとんどが親や妹や手も握った事のない片思いの彼女の事を思って出撃したのです』という様な事を話していたと書き、慰安婦関連のブログは終わりにします。
(迷惑内容なので親しい方のブログにも足跡はつけませんでした)