呪いの言葉は被害者を悲しませる。

 『慰安婦』という言葉で悲しむ外国の女性がいる。心の傷を思い出させる心ない言葉は呪いの言葉である。
 かたや『被爆者』という言葉では広島・長崎だけでなく、多くの日本人が悲しい思いをする。これも呪いの言葉である。
 国家であろうが個人であろうが、他人をさげすみ、悲しませる呪いの言葉は口にしない方が良いに決まっているし、もし呪いの言葉を吐いたなら呪い返しの言葉が降ってきても仕方のない事だと思う。
 
 5月23日のブログ『あまりに稚拙なプロパガンダ(もどき)』に「原爆投下、神の懲罰」と書いた韓国・中央日報のキム・ジン論説委員の事を書いたが、私は『神の懲罰』に怖気が出たのであり、あの記事が『日本への原爆投下により戦争の終結を早め日米兵士の多くの命を救った』と書かれていたのならば、ブログの切り口は変わっていた。
 少なくとも、肯定はしないまでも否定はしなかったと思う。なぜなら、それはその人の考え方であり、少なくとも『神』という隠れ蓑で自らの責任から逃れる姿には見えないからだ。
 また、もしその様に書かれていたのならば、多くの日本人は思い思いの証拠を探し出して反論したに違いない。それは『慰安婦問題』で日本に反論する諸外国の姿と二重写しの行動である。かように人間の行動とは、国は違えど同じものなのだ。
 
 触れられたくない事に触れ、さらに触れ方をエスカレートさせれば、反論もエスカレートするのは当たり前である。だから、心の問題に踏み込んでしまった場合は謝罪以外ではケリをつけられない。
 現在の知能しかない人間には、心の問題を裁く能力は備わっていない。裁判で裁けるのは行動の問題であり、心はいつも置いてけぼりにされる。
 差別、軽蔑、嘲笑など、他人をさげすむ言葉は人間関係を悪くする呪いの言葉である。『言霊』を信じる私ではないが、言葉が人の心を傷つける事は知っている。私は呪いの言葉を吐かない様にしているが、心ならずも傷つけてしまった場合は謝る事にしている。