火遊び。

 社会人になった春苗は朝早く出勤して行くけど、大学生の晃彦は朝が定まらないので私の仕事がある月~木曜は食卓に朝食を用意して私も家を出てしまう。でも今日は金曜なので大きなカップで食後のコーヒーを楽しんでいるとガタガタと騒々しく晃彦が起きてきた。
『おはよう母さん。金曜だけど今週はどうするの?。出かけるの?。』
「うん。午後の新幹線で行くわ。夕方までには着きたいから。帰りはまた日曜の夜ね。」
『週末は姉貴のメシか~。姉貴の作るメシは旨くないんだ。』
「ありがとう。母さんの料理がおいしいっていう褒め言葉にとっておくわ。」
 
 できちゃった結婚一姫二太郎を育て、2人の子供も手がかからなくなって夫婦の時間も少しは増えるかと思った矢先に、海外出張の夫が帰国の飛行機事故で亡くなった。マンションなどの借金は夫の退職金と事故の見舞金や賠償金で返済し、いくらかは余ったもののそれだけで食べて行けるわけもなく、月~木曜のウィークデイには友達のブティックの手伝いをしている。
 平日は中年のお客様が多いけど、若い人の様に衝動買いはほとんどしないので売り上げは週末ほどには良くない。週末は若いお客様が多いので、私の様なオバさん店員に出番はなく、友人も金~日曜には若い店員さんを雇っている。それは、今の私にとってはとても好都合だった。
 
 晃彦を大学に送り出し、私は旅行の準備を始めた。子供達には幼稚園から高校まで住んだ静岡の友達に会いに行くと言ってはいるが、本当は浜名湖にある2人のリゾートマンションに行くのだ。
 彼と知り合ったのは、友達のブティックから昼食に出かけた時に『多分この付近だと思うのですが、小松記念講堂というのはどちらでしょう』と道を聞かれたのがキッカケだった。少し判りにくい所なので案内したら、平和集会が始まるまでには時間があるからと、今度は昼食のできる所を聞かれたので私の行きつけのお店に入った。
 カツレツからフレンチまでメニューのある気安い店で、2人とも本日のお勧めランチを食べ、彼が道案内のお礼にと食事代を払った。私が「見ず知らずの人にお昼をご馳走になるのは申し訳ありません。」とバックをさぐると、彼は『貴女の電話番号を教えていただけませんか。そうすれば私達は他人ではなくお友達です。』と言った。
 さりげない話の持って行き方に電話番号を教えてしまい、分かれてから少し不安になった。でも、嫌なら無視してもいいし、電話番号を変えてもいいと自分を納得させた。
 その夜、彼から電話がかかってきて、自分は反戦平和の活動をしていて、今日はその集会のために東京へ出てきたが、会場が変更になって迷った事、そのおかげで楽しい昼食ができたとのお礼の電話だった。来月も上京するので、できれば今日の所でまた食事をしたいとの誘いの電話でもあった。
 私も、平日はあの近くで働いているので、お安い今日のレストランでの昼食くらいならお付き合いできます。でも、お客様の状況によっては昼食の時間のとれない事もありますと、遠回りに断りの意思も示した。彼は最後に『ありがとう。それではまた。』と言って電話を切った。私の頬は上気していた。
 
 ほぼ1ヵ月後、お店で洋服を並べ直している時に彼から電話があった。言葉に気をつけて電話に出ると『アッ、私です。今日も午後から集会があります。私は先日のお店で食事をします。できれば来てください。本日のお勧めランチを注文します。』
 私は(本日のお勧めランチ)という言葉に笑ってしまい、それが私の心の警戒心を解いて「私もそうします。」と返事をしていた。
 昼食を食べながらの軽い話で、彼が岡山から来ている事と、新幹線で日帰りしている事を初めて知った。私は近くの友達のブティックの手伝いをしている事は話したが、あまり深入りしないように注意して話題を選んだ。
 彼は今回も『楽しい昼食をありがとう』と言って2人分の食事代を払ってくれ、次の予定は決まっていませんが、また東京に来た時は昼食を一緒に食べましょうと軽い約束をして会場の方に歩いて行った。
 私は(義務感を背負っている人の背中は広いな~)と思いながら見送っていたが、彼は振り返りもせずに角を曲がった。義務感に足を早めるそのいさぎよさに、私は信頼感をいだいた。
 
 約2ヵ月後に彼から電話があり、同じレストランで、やはり同じ様に本日のお勧めランチを食べた。食事の後、話をしながら(大きな体の割には優しい顔立ちと澄んだ目をしているな~)(平和運動をする人はみんなこんな顔をしているのだろうか)と考えていると、彼が『実は明日、原水禁の集まりがあるので今夜は東京に泊まります。』と言ったらしいが、私は「エッ。月、水、金ですか。」と聞き直してしまった。
 彼は可愛い笑顔で『原水禁の会合です。』と言い直した。「アラ、やだ、ワタシ。何を聞き間違ったのでしょう。月水金だなんて。ごめんなさい。」
 すると彼は真顔になって『明日の原水禁の会合のため東京に泊まりますので、今日は昼食だけでなく夕食も一緒にしてもらえませんか。あなたと食べる食事はとても楽しいのでお願いします。』と頭を下げた。私は警戒しながら「どちらのホテルにお泊りですか。家から遠くなる様だと困ります。」と答えたが、こんな言い方では断るよりも同意の意味が強くなってしまう。しかも、ホテルは家に近い方向だった。
 
 この人は悪い人ではないという直感を信じて「今までもお泊りになった事のあるホテルですか。お近くに良いお店をご存知なんですね。」と聞くと、彼は笑顔で『ホテルのステーキハウスがとても美味しいんです。』と答えた後に真っ赤な顔をして『失礼しました。これではホテルにお誘いしているみたいでした。申し訳ありません。本当に失礼しました。』と立ち上がって頭を下げた。
 私は食事をしているお客全員に見られている様な気がして、あわてて手を上下させて座ってくださいと、私も顔を真っ赤にしてお願いした。2人で顔の火照りを冷ますかの様に同時に水を飲み、飲み終わると同時に肩を震わせながら声を忍ばせて笑った。
 家に帰ると春苗も晃彦も帰って来ていて、私の遅い帰宅に驚いた顔をしていた。
 春苗は『お母さん。遅くなるなら電話くらいしてよ。心配しちゃった。』と言い、晃彦は『何か旨そうな匂いがする。』と言った。
 春苗には「ゴメン、春苗ちゃん。でも、電話が無いと心配するでしょう。」と答え、晃彦には「あなたの焼肉パーティーのニンニクの匂いよりは上等よ。」と答えた。子供達は皮肉のこもった私の言葉にふくれっ面で顔を見合わせた。いつも待たされる私としては敵討ちができた様で、食事中のワインの酔いもあり、気分が良かった。
 2人がいろいろ聞くので「珍しいお友達とバッタリ出会って、少々無理してステーキを食べてきたの。」とか「その人、宝塚に憧れたけど落ちてしまって。凛々しい美少女だったけど、やはり普通のオバサンになっていたわ。」とか作り話で誤魔化し、肝心な事は何も言わなかった。
 子供達の『食事でワインを飲んだんからご機嫌なんだ。』とか『オバサン2人がステーキで盛り上がる様子は想像したくない。』とか勝手な事を言うのを聞きながら、私の心は久しぶりに浮き立っていた。
 
 彼との馴れ初めと、今も気づいていない子供達を想像しているうちに浜松のアナウンスがあり、私は降りる用意をした。浜名湖を見渡せるリゾートマンションには彼よりも早く着き、冷蔵庫に買ってきたケーキを入れ、いつでもコーヒーを入れられる様にその用意もし、締め切っていた部屋の淀んだ空気を入れ替えるために窓を開けた。上りの新幹線の通過するのが見え、彼がそれに乗っている気がした。
 自分の勘を信じて軽く掃除機をかけ終わるとチャイムが鳴り、やはり私の勘どおりに彼が微笑んでいる。「洋服を着替えて寛ぎましょう。ケーキ買ってきたからコーヒーでいいでしょう。」と言って私はコーヒーを淹れはじめた。
 窓を閉め、コーヒーの香りが淀んでいた空気を追い出すころに、彼が着替えを済ませて席に着いた。お互いに相手の顔を見つめ、コーヒーとケーキと笑顔で見つめ合った。どちらからともなく、口を開いたのは1杯目のコーヒーが終わってからで、大人の会話と大人の時間を楽しんだ。
 
 なんと豊かな時間を共有しているのだろうか。初めのうちの様に、彼が東京に来てホテルに泊まり、私はさほど遅くならない時間に家に帰る様な逢瀬に比べれば、本当に心の落ち着く愛の時間を共有できる。中古だけど、このリゾートマンションを2人で買ってよかった。バブル崩壊後の不動産不況だったとはいえ、1人400万円近い資金の捻出はお互いに大変だったが、共同名義でリゾートマンションを所有し、誰にも邪魔される事なく愛し合えるのは至福の贅沢だった。
 お互いに新幹線で来るので、東京まで来てもらったという心の負担は消え、どこかで誰かに見られるという心配もなく、私も彼の腕の中で一途に燃える事ができた。主人が亡くなって私は女を捨てたと思っていたけれど、私の体の芯には女が身を潜めていた事に自分で驚いた。
 このリゾートマンションでは新婚時代以上に。いいえ、成熟した女として、私は最後の輝きを思いっきり出しているのかもしれなかった。その瞬間は、私にも止められぬ命の輝きだった。
 
(続く)