心の奥底にある『ねたみ』という厄介物。

 私が独り者の時に町の繁華街とその周辺が焼ける火災に遭ったが、焼け出された者同士が慰め合うのは数日で終わってしまった。それは同じ様に焼け出されても、それぞれの状況が違うと心の奥底の淀みから『ねたみ』の気持ちが湧き上がってくるのである。
 幸い死者も怪我人も出なかったが、商店では仕入れた商品の支払いが残り、食堂などの食べ物屋さんはその負担が少なく、屋台でも商売になるのでお店の立ち上げが早かった。また、火災保険を掛けていたか、いないかでも明暗が分かれた。
 
 東日本大震災はもっと複雑だ。津波で家も家族も失った人もいれば、津波の被害を受けなかった人や、原発事故のダブルパンチを受けた人もいる。仕事が漁業であるか農業なのか、その違いにより見舞金や補償金に差が出るだろう。たとえ無利子の融資を受けてもいずれは返すお金なので、貰うだけの東電の賠償金を『ねたむ』人も出るかもしれない。
 また、支払いをする東電側からすればどこかで線引きをして、賠償金の支払い対象を限定しなければならない。その線引きからもれた人にも『ねたみ』の感情がわくだろう。今までも水俣病イタイイタイ病カネミ油症、原爆症などの認定でも、国や企業は被害者に心の不公平を感じさせ、苦しめた現実がある。
 人間の心の中の『ねたみ』を無くす事はできないし、『ねたみ』がうずき出さない裁定など人間に下せるわけもなく、数十年に及ぶ裁判闘争になるかもしれない。人間の心とは難しいものである。