私はバブルで得したの?損したの?

 私は転勤族なので結婚は無理と思っていたが、伯父に勧められた見合いで20代後半に結婚して東京都八王子市のアパートに住み、30代前半で茨城県潮来町の借家に引越し、30代なかばには埼玉県大宮市のアパートに引っ越した。
 その頃から私の様なサラリーマンにもバブルが身近となり、不動産業者がアパートにもやってきました。私と女房の兄弟姉妹はみんな自宅を持っていて、アパート住まいは私たちだけだったので、なんとなく自宅を持たなければならないという雰囲気でした。
 そんな雰囲気だったので現地見学を申し込んだものの、連れて行かれた所は東北本線古河駅から東へ車で30分もかかる畑の中で、小型バスから降りると養豚の匂いが漂う丘でした。
 そんな見学会で失望したものの、不動産業者は『もう直ぐ売り切れますよ、もう○○区画しか残っていません』などと何度も電話をかけてきて電話恐怖症になりそうでしたが、それから間もなく転勤になり群馬県前橋市のアパートに引っ越しして電話恐怖症からは解放されました。
 
 前橋市郊外は住みやすい所だったので近所の土地を物色したものの、バブル最盛期であったため私の稼ぎでは買う事ができず、数年後にはお袋が癌と診断され、私は初めて実家近くから通える所へ転勤希望を出し、練馬区のアパートに引っ越しました。そしてお袋はモルヒネで寝かされ続け目覚める事なく死んだ。私が聞いたお袋の最後の言葉は死ぬずいぶん前の『先生・・・頭がボーとしています』で、我々兄弟への言葉は無かった。
 お袋の死をキッカケに40歳なかばから私の別荘探しが始まり、転勤先も地方が多かったので老後は別荘に永住する暮らしを考えた。
 
 一番最初に探したのは蓼科の別荘地でした。南八ヶ岳北八ヶ岳は魅力的な山域だし、諏訪湖は氷結するしスキー場も沢山あるし。自動車で麦草峠も越えられる魅力満載の地でした。
 ただ、女房は『寒いよ~!!冬場はどうするの?』と気乗りしなかったので、私は真冬に歩くスキーで蓼科側から八千穂側に下る計画を立てました。積雪期のバスの終点(無雪期は別荘地の最奥まで行くが積雪期は別荘地の入り口が終点だった・知らなかった)から歩き始めて夕方までに麦草峠に着く事ができず、あまりの寒さに死の恐怖を感じながら下山しました。また永住となると冬場の暖房費も高額になると判り蓼科永住は砕け散りました。
 蓼科での別荘探しで『寒冷地の別荘には自宅から2時間くらいで着ける事』という鉄則を知りました。寒冷地の戸建別荘では到着して暖房を焚いても温まるまで時間がかかるし、自宅から別荘に着くのに時間がかかると、サラリーマンの間はほとんど行く事ができなくて点検修理もままならない不良物件になるという事です。
 
 女房とリタイア後の生活プランを練り直している最中に、兄貴が遺産相続の相続放棄に支払う、通称『ハンコ代(金)』を払えなから、60坪しかない土地だが半分づつにしようと提案してきて東京に家を持てる様になりました。
 そうなるとプランはかなり柔軟性が出てきます。そして出た結論は温泉が楽しめてスキーも出来るという草津温泉のリゾートマンションになりました。販売業者にとっては不運のバブル崩壊でしたが、私たちからすれば幸運で、数年間売れ残った部屋が1千万円弱で購入できました。
 しかし、私にも不幸が待ち構えていました。11月に購入したら、12月にはバブル崩壊後の人員整理で肩を叩かれ、55歳で退職となり再就職活動をしましたが無線技術士の求人はありませんでした。
 人間は生活費以下の収入しか無くても、退職以前の収入の生活を急に変えられません。退職時に年間3百万円で暮らすという目標を立てましたが、そうなるまでに2年かかりました。
 それと手放してもかなりの損になるマンションは、管理費等が月4万円弱なので所有する事にしましたから、実際の生活費は年間に約250万円という次第です。(税金・光熱水費がかかりますので衣食などの直接支出は月10万円までです)
 
 リゾートマンションを所有して約20年ですが、今は手放さなくて良かったと思っています。兄弟が近くに住めば何かと問題が起こります。まして隣同士だと兄弟は他人の始まりではなく、不倶戴天の敵でしかありません。(ですから兄貴を草津に連れて行った事はありません)
 歳をとり、兄弟姉妹の家が甥や姪中心の生活になってしまうと、実家だけでなく親戚にも顔を出すのがままならなくなります。今は草津が実家の様なもので心と体を休ませる事ができます。(音楽を聴きながら思い出に涙を流す姿など誰にも見せられません)
 それから別荘探しですが、歳を重ねいずれは車を手放す事になりますから代替交通手段が確保できるという条件も重要です。(草津温泉は新宿からJRバスが毎日運行しています)