『老人学』のすすめ。(その1)

 今年の正月に親しい仲間と話していたら一瞬座がしらけたので、私が「最近、寿命は残り少ないのに毎日の時間は有り余っている」とつぶやいたら大うけした。それを期に年寄りの失敗談で盛り上がり、出るわ出るわで大笑いの宴会になった。
 
 それ以来、何とはなしに(歳をとるにも学びが必要かもしれない)と考える様になった。それもそうだ。赤ん坊が成長するに従い、その年頃に初めて出合った事で知恵や知識を学んだ様に、初めて老人になる年寄りだって今までの経験と勘だけでなく学びが必要なのではないかと考える様になった。
 『寿命が少ないのに時間は有り余る』というのだって、時間が有り余るのではなく、いくつかの仕事が1日でできなくなってきたというのが本音である。達者で働き盛りの頃ならいくつかの仕事を1日で片付けられても、歳をとると1日一つ片付けるのがやっとという事が起こってくる。
 
 力仕事など、一段落ついたのでお茶を飲んでくつろぎ、さて続きをやろうとしたら腰の辺りがグキとして続けられなくなるという事だって起こりうる。すなわち、時間は有り余っているわけではなく、仕事を片付けるために時間がかかると言い換えるべきかもしれない。
 現に我が家には、2年ほど前に切り倒した白樺の一番太いやつが始末されずに寝転び、所々に名前も判らぬキノコが生えている。私は始末しない言い訳に『家にある小さな鋸では、息は切れても幹が切れない』と言い訳していたが、キノコが生えていてしまって女房のお怒りモードが著しく上昇して、2月半ばまでに始末する事を約束させられた。
(骨身にしみる苦行になるしタイムリミットのある仕事は今も昔も大嫌い・笑)