脳は苦しみから逃避する。

  生命とは有機物を油の幕が包み、中で代謝が行われるひ弱な存在である。細胞膜を溶かす酸やアルカリが存在すれば生命は溶解し死んでしまう。
  細胞はひ弱であるがゆえに悪い生存環境の状況から逃げたいと感じ、生命の危機を苦として認識していたはずである。
  人間にまで進化した我々であるが、我々もまた遠い先祖の記憶により、苦に耐える力は弱い。ゆえに、我々もまた苦からは逃避する。
 
  肉体は痛みや苦しみから遠ざかる事によって逃避したり、痛みを感じなくするする薬などにより逃避する。しかし、人間本体が発する思考の苦しみから逃れる術は限られている。
  脳自体が発する苦しみは、薬によりその苦しみから逃れるか、苦しみ自体を無かった事にしようとする思考で逃避する様になる。
  脳にストレスを与える精神的苦痛は薬により軽減できる。また、時に脳は精神苦痛から逃れるために精神的逃避行動をとる事がある。私はボケなども精神的逃避行動だと思えてならない。
 
  老人がオネショを隠すのも恥ずかしさという精神的ストレスからの逃避であり、物忘れによる探し物を『だれかが盗んだ』と言うのも精神的な逃避である。
  人間は責任をとる事に大きな苦痛と屈辱を感じる。だから、人間はボケ始めると自己弁護の言葉が増え、責任回避(精神的逃避)を図ろうとする。そして、その自己弁護は子供の言い訳に似てくる。
 
  ボケ始めた年寄りを『二度わらし』とも言うのはその特徴をよく表している。言い訳をする子供をとことん追い詰めてみても良い結果が出ない様に、ボケ始めた年寄りを追い詰めて責任をとらせ様としても無意味である。
  二度わらしにも、子供が言い訳する時と同じ様に愛情で包んで言い含めるしかないと私は考えている。
(時には優しく落ち着かせるだけでよしとするしかない事もある)