常識って、育ってきた家庭の習慣?

 見合い結婚したので新婚ホヤホヤの頃。(まだ妊娠していないから)離婚してもいいやという思いが強くありました。
  女房の実家というのは漁師なので親の意見が絶対というのが当たり前の家庭でした。私の方はサラリーマン家庭でしたから自分の考えを言える家庭でした。
  そんな育ちの違う男女が一緒になりましたから、それぞれの常識が違うわけです。それに常識なんていうのは、そのほとんどが育ってきた家庭の習慣が中心にあります。その後、仕事や人間関係で学んだものが常識に加わり、常識は変化します。
  本題をそれて余談になりますが、私は『仕事は人を創る』と考えています。よい仕事に就いてよい習慣を身に付ければよい人生が送れると考えています。
 
 違う家庭の違う習慣で育ってきた凸凹男女が一緒に生活するわけですから、上手くいくわけがありません。女房が自分の意見を言わないので、私が「こうしろ」と言うと、女房は気に入らない時には目を三角にして睨みます。
  そんな目で見られたら(自分の意見も言わないのに俺の意見に従えないなんておかしいじゃあないか)と私は思うわけです。これが一生続くなら離婚した方がマシだと考えてしまいました。
  そして、女房の意見を聞こうとしても、やはりなかなか話しません。ある時「ご近所づきあいは私にはよく判らない。女の感性を聞かせてほしい」と聞いたら、女房は私とはぜんぜん違う考えを言いました。
  「そうか!!男はほとんど家にいないからご近所づきあいは女の考えでやるのがいいな」と口に出して以降、女房が自分の意見を言う様になりました。
  新婚時代が楽しくなったのはそれからです。そして我が家の常識ならぬ新しい2人の習慣が育ったのです。
 
 そうして育ってきた我が家の常識には『離婚する』というのもあります。私のは『女房が第三者の意見に従う様になった時』という考えです。
  よく話し合ってきた私達ですから、我が家は私達2人のどちらかの意見で動いています。もし、第三者の意見を聞く様になったら私は離婚します。
  例えば、聖書などの宗教家の意見を聞く様になったら離婚するという事です。なぜなら、たとえ宗教であっても私の言葉を信じないという事ですから、その時は私と別れて宗教と夫婦になってもらいましょう。
  アッ、別におかしな考えではありませんよ。修道女はみんなキリストの妻ですから。(すると修道士は聖母マリアのツバメ?・ごめんなさい不謹慎な発言でした!!)
  私は心の離れてしまった妻を引き止める気はありません。妻の意思に任せます。(あなたも宗教も!!って、それは欲張りすぎだ!!)