『死刑刑場』テレビカメラに初公開。

 今日、千葉法務大臣の意向で東京拘置所の『死刑刑場』がマスコミに公開され、テレビで放送された。国民が死刑を真剣に論ずるためには刑場の公開は大切な事だと思う。
 ただ、死刑反対派のエセ人道主義者が口にする『絞首刑は残酷な刑罰だから』という「お子チャマ論」はもう2度と聞きたくない。私はこの理由が大嫌いだ。なぜならば、これは『残酷でなければ死刑もアリ』と言っている事と同じだ。
 ではなぜ残酷な刑が悪いのだろうか。死刑囚は残酷な事をしなかったのだろうか。
 絞首刑とは、自分で墓穴を掘らせてそこに生き埋めにするより残酷なのだろうか。もし、生き埋めが残酷でないとしたら、絞首刑をやめて生き埋めで死刑を執行すればよい。
 絞首刑は、包丁で首を切るより残酷だろうか。ならば包丁で首を切って死刑を執行すればよい。大勢で殴る蹴るして殺すのが残酷でないならば、殴る蹴るで死刑を執行すればよい。焼き殺すのが残酷でないならば死刑は焼き殺しで執行すればよい。
 とにかく、人の命を奪ったから死刑の判決が出たのである。それと、元々残酷でない死などありえない。残酷性などを理由に死刑を論じてはならないし、国家に人の命を奪う権利が有るか無いかなどを論じてほしくない。もし、国家が死刑を放棄するなら国民に『あだ討ち』の権利を認めてほしい。欲張りついでにもう1つ。国家が死刑を放棄するなら戦争も完全に放棄し、罪も無い国民を戦場に送り出さないでほしい。
 私は『目には目、歯には歯』の様な単純明快な解決方法が判りやすくて好きだし、罪の償いは奪った物と等価な物によるのを大原則と考えている。
 鎌を借りたのなら刃を研いでから返せ。金を借りて利益が出たなら利子をつけろ。車を借りたのならガソリンは満タンにして返せ。パソコンを借りて壊したなら同じ機種を買って返せ。
(最近はそういう返し方をしない無責任な人が多くなっているけど)
 当然ながら、命は命で償うしかないだろう。