仏教系の宗教団体が来た。

 最近の私はエホバの証人に評判が悪く、半年ほど布教の訪問が無い。まあ、玄関に出る煩わしさがなくなってよかった。
 
 ところが、先日は珍しく仏教系の新興宗教が布教に来た。ご先祖供養について語るのだが、ご先祖供養をしないと不幸になるとの短絡的発想で、ご先祖が安らかにお休みできる墓を造るのがよいと結論付ける。
 私の家には墓が無い。それは私が長男じゃあないからであって、両親の墓は長兄が管理している。私の入る墓は造ろうが造るまいが、それは私の子供が考える事である。
 さて、ここで仏教系のその布教に疑問が生じてしまった。なぜ先祖供養をしなくっちゃあならないのだ。なぜ子孫に供養してもらわない先祖は子孫に災いをもたらさなきゃあならないんだ。
 
 ここに、宗教の起源が古代政治(まつりごと)である痕跡がみられる。
 すなわち『先祖をおろそかにすると、先祖が子孫にあだをなす』という論法には政治としての論理のすり替えが行われている。
 それは、究極問題として『親は子を守るか』という設問になる。
 結論として『私は我が子を守る』と言い切れる。先祖供養という言葉にビビる奴らには、多分その気が無いのだと思う。究極問題の究極結論として『先祖は子孫を守る』もしくは『先祖は子孫にあだをなさない』が正答になる。
 
 ところが、それでは政治の世界で都合が悪い。『親は子を守る』という正答から何とかして『国家のために命を差し出せ』という結論を導き出さなければならない。
 ゆえに『親を尊敬し孝行せよ』と歪曲が始まり、終局として『親を粗末にするのは親不孝』となる。その結論は国家により『国家のために命を差し出せ』に容易にすり替えられる。
 軍国日本の様に『国民は天皇陛下の赤子である。天皇のために死ね。』と政治は叫ぶ。これを直訳すれば『親のために子供は死ね』となる。どこに我が子にそう言う親がいるだろうか。
 
 布教に来た仏教系の新興宗教も、今まで足しげく来ていたエホバの証人も、人品骨柄ともに穏やかな人である。だが、盲目的に信じるという事の哀しさ。自分の語る言葉の論理的矛盾に気づいていないし、そこに含まれる『個の論理』と『群の論理』の差を理解できないでいる。
 盲目的に信じる姿は滑稽でもある。童話の中にこんな3段論法がある『お前は2本足で歩く』『アヒルも2本足で歩く』『ゆえにお前はアヒルだ』
 『群の論理』である宗教の中に『個の幸せがある』と信じる愚かしさは、この3段論法で納得するのに酷似している。