エッ。それって、ありだったの?

 子供の頃、大きなお金を持てるのはお正月くらいだった。さらに、お年玉の行方については納得のいかない事も度々あった。
 1つは目は『無駄使いしない様に』という理由で、子供に持たせるには多すぎると思われる分を親が預かった事だ。『必要になったら言いなさい』と言ったはずなのに、親に預けたお年玉はいつの間にか消えていた。いわく『文具を買ったでしょう』『運動靴を買ったでしょう』『ETC』『etc』で消えていた。まあ子供の自分には判らなかったが、それだけ貧しかったという事だ。
 
 2つ目は、長兄が鉄道模型を買った時だった。長兄のお年玉でもすべてそろえるのは無理だったので、長兄は『お前にもやらせてやるから』と私のお年玉でレールと貨車を買った。だが、いざ買ってみると『危ないから』との理由で、電源を入れて機関車を運転させてはくれなかった。私はレールをつなげて貨車を手で動かす事しかさせてもらえなかった。
 それでも長兄より遊ぶ時間の多かった私がレールをつないだり外したりするうちに、レール接続用の金具がめり込んでしまい、私は長兄にひどく殴られた。『お兄ちゃんごめんよ~』と泣いて謝ったが、いま考えれば貨車とレールは私の物だったのだ。
 
 歳が離れ父亡き後は家を仕切ってきた長兄の呪縛が解けるのには時間がかかった。母も亡くなった後に遺産相続を始めて、長兄が自分に有利な条件を持ち出して私を騙そうとした事に気付くまで私の長兄信仰は続いた。
 慣習打破は難しいものである。裁判でも地域の慣習が法に優先する事もあるくらいで、慣習は人の生活行動を形作る重要な要素である。しかし昔の統治機能としての不公平な慣習も時に残っているから、それらは打破した方がよい。とはいえ体に染み付いた慣わしは法と照らし合わせるくらいの努力をしないと気付かないものである。