山の鬼。(前編)

  山のふもとの茶屋で僧が休んでいると、峠から青ざめた顔をした旅人が下ってきて倒れ込む様に茶屋の前に座り込んでしまった。茶屋の者が抱え込んで奥の座敷につれて行き、水を飲ませ、甘酒をすすらせると旅人も人心地がついたらしく、峠の家から逃げてきたと、震えながら一夜の宿をかりた鬼婆の話をはじめた。
 
 「昨日はまだ陽もあるから山を越えてしまおうと登りはじめたんですが意外と手間取り、峠に着く頃には真っ暗になってしまいました。うろうろするうちに明かりが見えて一夜の宿を乞うた所が山姥の家だったのです。」旅人は身震いをして更に続けた。
  昨日は少し遅いかとは思ったものの、峠の高さはさほどとも思えなかったので峠越えを始めたが、山道は途中から岩だらけになり峠についた時は日もとっぷりと暮れてしまった。
  なお悪い事に、峠は広くて起伏が少なく、どちらへ進めばよいか方向が判らなくなり、少しでも高い所へと歩むうちにかすかな明かりを見つけてそちらへ向かうと、山の中とは思えぬ家が建っていたので、旅人は一夜の宿を乞うた。
  そこには老婆が一人で住んでいて、粗末ながらも味噌漬の猪肉の入った山菜粥をふるまってくれた。
  旅人はこの峠越えを甘く見て難儀した話をした。「この峠はさほど高くもないのに、登るほどに道が岩になり歩きづらいし、峠の上が広くてどっちに向かえばいいかも判らなくなって難儀したわ。野宿も覚悟したらここの明かりが見えて夕餉までいただけて助かりました。ありがとうございます。」
  老婆は鍋の蓋を取りながら『今日のお前様は西から山に登りなすったね。夕日でも明るく感じるから登りなすったんだろう。』と聞いた。
  「アレ、その通りで。暗くなる前には峠は越せるとふんだんですが、とんだ勘違いで峠に着く前に暗くなってしまいました。峠の上に上ればすぐの下り道になるだろうと思っていましたが、こんなに広く平らで迷いました。」
  老婆は囲炉裏の火を引きながら『それと、峠に着いて右の道を登りなすったね。』
  旅人は「おやまあ、なんでそんな事まで判るんで?」と驚いた。
  『南の山のてっぺんには山の神を祀った祠があるので、村人も訪れるから道が広く歩きやすいし、少し上るとこの家が見える。だがな、左は道も狭く少し下りになっているし、鬱蒼たる森になるからこの家が見えない。いい方に曲がりなすった。』
  「アァ、そういえば歩きやすかった。少し上ったらこの家の明かりも見えてこうして夕餉もちそうになれました。ありがたや、ありがたや。」と老婆に手を合わせた。
  老婆は火箸で囲炉裏の灰をかき回し『まあ、霧などでこの家の明かりが見えなくても、山の神の祠の手前には奥の深い岩屋があって、そこで夜露をしのいで一夜を明かした旅人も大勢いますだ。ただな、岩屋の奥には人骨がころがっていて、それに気づいた人は逃げ出して、時に山に迷って亡くなってしまう人もいますだ。』
  その話に怖気づいた旅人は手で話を払う様に「おっ、おばあさん。気味の悪りい話で脅かしっこは無しですぜ。それでなくてもこんな山ん中だ、人をとって食う山姥の話を思い出しちまうじゃあないか。桑原桑原。」と首をすくめた
  『ワハハ。山ん中に婆がいれば山姥だわな。ならばわしも山姥か。ワハハ。』
  「笑い事じゃあねえぜ。寝ている間にとって食うなんてえのはごめんだぜ。」
  『ワハハ。取って食うといってもこんな歯の無い口じゃあ食う事も出来んじゃろう。』と老婆は旅人に口を開いてみせた。
  旅人も「ありゃありゃ。前歯くらいしか残っとらんのう。それじゃあ、この猪肉を食うにも難儀するじゃろうに。」
  『そうじゃのう。本当は海の魚が食いたいのじゃが、こんな山ん中じゃあめったに食えんの~。』
  魚好きの山姥と思った旅人は「おばあさん。魚が好物かね。ならば、ワシが帰りには塩引きの鮭でよければ今夜の礼に持ってくる事にしよう。それでいいかい。」と言った。勿論、魚を持ってくる約束で取って食われるのから逃げようとの魂胆である。
  『旅人さんからうれしい話を貰ったところでそろそろ休みなされ。奥の部屋に床を用意してありますから寝てくだされ。』
  旅人は用心して「そうさせてもらいますが、お婆さんはどこで寝るんです。」と聞いてみた。
  老婆は後ろにあった編みかけの籠と道具箱を引っ張りながら『もう少しで籠が出来上がるから囲炉裏の明かりで編んでしまい、その後は囲炉裏の火を守りながらここで寝ますわ。それではお休みなさい。』と何かの蔓で編んだ籠作りをはじめた。
  隣座敷で寝床に入った旅人だったが、山姥かもしれないと思い込んでしまい。なぜ山中に小屋でなく普通の家があるのかとか、南の祠の下の岩屋になぜ人骨があるのかとか、魚好きな山姥なら塩引き鮭の約束で命は安堵してくれるだろうかとなかなか寝付けなかった。
  白々と夜の明けるころ、旅人は老婆の上がりかまちを上る足音で目が覚めた。襖の隙間から囲炉裏の部屋を覗くと老婆が右手に鉈を持ち、左手に手鍋を下げて囲炉裏に向かってくる姿が見えた。
  鉈を見た旅人は、やっぱり山姥だと確信し、老婆がまた外に出た時に裏から逃げ出し。こけつまろびつ東の坂を駆け下り、茶屋の前まできて精根つき果ててへたり込んでしまった。
  そして、茶屋の人に峠の山姥の話を始めたのだが、その話が外で休んでいる僧の耳にも届くと、僧は茶代を縁台に置き何も言わずに峠へと向かった。
 
  僧の立ち去った茶屋では旅人の山姥話しがまだ続き、恐ろしい話のはずなのに、なぜか茶屋からは笑い声が聞こえた。
  茶屋の主人は旅人に『あんたは山姥を見た事があるのかね。』と聞いた。
  旅人はすかさず「だからゆうべその山姥の家に泊まって食われそうになったんだ。」と答えると茶屋にはまた笑いが渦巻いた。
  『そうじゃあない。昨日以外にどっかで山姥を見たり会ったりしたのか聞いてんだ。』
  旅人は腹を立てた様に「あんな恐ろしい目に度々あってたら命がいくつあっても足りやあしねえ。昨日が初めてだ。」と言い切った。「それにこんな怖い目にあった俺を何でお前らは笑うんだ。」と本当に腹を立てた。
  茶屋の亭主も笑いながらだが『悪かった悪かった。お前さんがあの婆さんを山姥と思い込んだのがおかしくて笑ってしまったんだ。』周りの衆もウンウンという様に首を振った。
  旅人はなおもふくれ面で「なんでえ、じゃああれは山姥じゃあねえんだな。本当か。」と聞き返した。
  茶屋の亭主が『そうだとも。』と言うと、またもや周りの衆もウンウンとうなずいた。旅人が狐につままれたような顔をすると、茶屋の亭主が語り始めた。
  『あの婆さんはお代官様から頼まれてあそこに居るんだ。まあ、ご亭主が死んでしまったから山を下りようと思った事はあるが、ここに居てくれとお代官様に頼まれて今も山暮らしをしているんだ。』
  それを聞いても旅人はまだ信じられないという顔をしているので『あの婆さんの一家はここの殿様が来る前から代々あの山守りをしている木こりだし、腕のいい大工でもあったんだ。家を見ただろう。あんな山ん中に四部屋もある家を建てたのは先々代の爺様だ。山ん中に立派な家。不思議だったろう。』
  旅人はやっと「ああ、変だと思ったぜ。峠の小屋で炭焼き小屋より立派なのは見た事がなかったからなあ。おまけにふすままであったんだぜ。」
  『そりゃあそうだ。あそこは12年に1度の大祭の時にはお殿様がお休みになる所だからな。』
  「あんな所にお殿様が行くのか。」『婆さんから岩屋と骨の事は聞いただろう。』「ああ聞いた。気味の悪い話だぜ。まったく。」と旅人がつぶやいた。
  『あれはな。昔といってもまだ百年にもならんが、ひどい飢饉と疫病が流行って大勢が死んだ。それを村に葬ってますます疫病が流行ってはいけないと、あの岩屋に死んだ者も死にそうな者も置いてきたんだ。だから酉の干支(とりのえと)が一回りする12年ごとにお祭りをして魂を慰めるんだ。』
  旅人は体が前かがみになるほど大きなため息をついて「そんな事があったんだ。人を食う山姥じゃあなくて、山守りの婆さんだったんだ。それを山姥と思い込んで悪かった。」
  茶屋の亭主はそれに答える様に『そうよなあ。あのあたりは八丁平という地名で、平らな所が広いから道に迷う人も多く、冬には凍え死にそうな旅人が何人もあの婆さんに助けられている。時にはお前さんみたいに逃げてくる旅人もいるもんさ。婆さんに恩を感じたなら帰りには約束の魚を土産に峠を越えなよ。』と言って茶屋の支度に戻ると、集まっていた者もそれぞれの仕事に散っていった。
 
  茶屋を発った僧は南の山の岩屋にある人骨を確かめ、山の神の祠に山姥退治を祈願し、夜に宿を乞うた後に隙を見て山姥を打ち殺そうと心に決めた。山姥に気づかれぬ様に南の山には直接登り、経をあげた後に下の岩屋を調べると数体どころか累々たる人骨の山だった。
  僧は人骨の前に坐し、多数の菩提を弔うために長い間経をあげた。日も暮れるころに岩屋を出て再度山頂の山の神の祠にとっぷりと日が暮れるまで山姥退治と峠を血で穢す許しの経をあげた。
  気取られぬ様に静かに山姥の家に近づき一夜の宿を乞うた。山姥は何の疑いも持たずに快く僧を家に入れ、夕餉をふるまった。
  そして山婆は僧に『めったにお坊様の通らぬ地ゆえ、死んだ亭主にお経を上げる事もできません。あの仏像は亭主が元気だったころに見よう見まねで彫ったものです。魂がこもっている気がしますので、あれにお経を上げてやってください。』と頼んだ。
  僧は心の中で、山姥にも夫を思う心があるのか、それとも亭主と死に別れて長い年月を一人で過ごすうちに人の心を失い山姥に成り果てたか。それでも亭主の事を思う時には人の心が戻るのかと思った。
  僧は手作りの木仏に向かい経を上げ、山姥の感謝の言葉を聞いた後に隣部屋の寝床に入ったが、囲炉裏で夜なべ仕事をする山婆の気配に気を配った。
  朝の気配とともに山婆が何か支度を始めた。僧は身支度を整えふすまの隙間から囲炉裏の部屋を覗くと、炎を上げて薪が燃えていた。そこに山婆が右手に鉈を持ち、左手に手鍋を下げて囲炉裏の方に歩んで来るのが見えた。
  僧は手鍋を囲炉裏に掛けた終わったら山姥は自分を襲いに来ると思い、囲炉裏に手鍋を下げる直前の隙を見計らって勢いよくふすまを開けて金剛杖で山婆に打ちかかった。金剛杖は囲炉裏に下がる自在鍵に当たり山婆ではなく、山婆の持つ手鍋を打ちすえていた。手鍋は囲炉裏に落ち、もうもうと灰かくらが舞い上がった。
  その隙に山婆は上がりかまちの土間に逃げ、慌てて飛び降りたため体が崩れて転びそうになった。僧はそれを見逃さず山姥の首筋に金剛杖を振り下ろすと、山姥はその一撃で首が折れて絶命した。
 
  僧は山姥の死骸をそのままにして意気揚々と山を下り茶屋に戻った。茶屋の亭主は昨日の旅の僧が戻ってきたので怪訝な顔をした。僧は『ご亭主殿。ご安心なされ。愚僧がただいま山姥を退治してまいった。』と胸を張って継げた。
  茶屋の亭主は一気に青ざめ奥に消えた。そしてお茶と甘酒を持って僧に勧めたが、やはり顔は青ざめたままで、口数も少なかった。
  茶屋の亭主に向かい、僧は山姥退治の自慢話を尽きる事無く話し始めた。僧が長々と話すうちに亭主が村の方に視線を流した。僧もそちらを見ると役人が数人やってくるのが見えたが、まさか亭主が使いの者を代官所に走らせ、自分を捕らえるために役人がやって来たとは思いもせず僧は山姥退治の話を続けた。
  役人が茶屋に着くと僧に向かい『そなたが山姥を退治したご坊殿か。』と尋ねた。僧は胸を張って立ち上がり「いかにも愚僧が山姥を退治いたした。」と答えた途端に役人に飛び掛られ、後ろ手に縛り上げられてしまった。僧が何をわめこうが、弁明しょうが、役人は『黙れ。代官所まで参れ。』と引き立てられた。
  茶屋の亭主は後ろ手に縛られるのはご定法どおりだと見ていたが、縛り上げた後ろ手から首に回された縄の短さが気になった。案の定、僧が両脇を抱えて立ち上がらされると、首に回した縄が喉を締め付けて、ヒューヒューと苦しそうな息づかいだった。
  苦しげな息づかいと時折咳き込みながら引き立てられて行く僧を見送ると、茶屋の亭主は村人を集めて背負子や梯子を用意させ、山に向かった。
  山から老婆の遺骸を梯子にくくりつけて下りてきた一行は遺骸を梯子から外し、茶屋の亭主の女房と女達が数人がかりで遺骸を拭き清め、背負子で下ろしてきた着物の中から小奇麗な物を選んで着替えさせた。それを男達が戸板に乗せて、日が西の山にさしかかるころには老婆の遺骸を代官所に運び込んだ。