宗教で人間は幸せになれるか。

  人間は宗教では絶対に幸せになれないと、私は考える。
  なぜなら、宗教にもヒエラルキーが存在するからである。
  ヒエラルキーの存在は、宗教が人間により造られた証拠である。
 
  ネット世界にリアル世界と同じ悪がはびこった様に、
  人間の造った宗教世界に人間世界と同じ事が起こるのは必然である。
  唯一の救いは、もう一つ宗教世界を造る余地の残されている事である。
  それは、ヒエラルキーの存在しない世界である。
 
  私は、不幸の多くがヒエラルキー(階層構造)により生ずると考える。
  ゆえに、ひょっとするとヒエラルキーの存在しない世界はユートピアかもしれない。
  しかし、人間はいまだかってヒエラルキーの存在しない世界を想像すらできない。
  それは、ヒエラルキーの存在しない世界を表す言葉の無い事で判る。
 
  自由、博愛、平等などの言葉はそれを感じさせるが、
  今の私の生活がどう変わるのか具体的に表す言葉は無い。
  ましてや、社会がどの様な形になるのかなどの表現はさらに難しい。
  人間は想像すらできない事を言い表す言葉を持っていないのが現実なのだ。
  ゆえに、人間にはヒエラルキーの存在しない世界を考えられない。
  もし、考えられる人がいたとしても他人に説明する事は不可能である。
  すなわち、現時点ではヒエラルキーの存在しない世界は無いのと同じである。
 
 
 
  人間社会にはすでに宗教が存在し、宗教団体も存在する。しかし、宗教に関係する人間には2通りの人間が存在するのはあまり意識されない。2通りの存在とは、宗教的生活者と生活宗教者である。
  似た様な言葉なので判りにくいと思うが、宗教的生活者とは、宗教に従い生活する人間である。生活宗教者とは、宗教により生活の糧を得る人間である。
  もう一つ付け加えれば、宗教的生活者は宗教集団の中でのヒエラルキーは低い者が多く、生活宗教者は宗教団体の中ではヒエラルキーの高い者が多い。
  すなわち、生活宗教者とは宗教団体のヒエラルキーの低い者から金を集め、それで食っている者たちである。
  形の無い商品を売る者たちのすべてにこれと同じ事が言える。信じて集い代償を払う者と、信ずる者を集めて代償を得る者である。
  すべての事柄に共通して言える事は、代償を集める側にいる人間は、時に多くの代償を集めるために、言行が先鋭化する危険性を秘めていて、時にオウムの様にテロ行為まで行う事がある。