愛の形(勝蔵と佳子)

 昭和20年も押し詰まった12月に勝蔵は南方から復員した。祖国恋しやの気持ちがつのり遠目に九州が見えると聞いてデッキに出たが、半袖でも暑かった南方の島の気候に慣れた体に師走の風が突き刺さった。だが、勝蔵は涙で祖国の山がにじんでもデッキに立ちつくした。

 超満員の列車を乗り継ぎ何時間も立ち続け、時に座席に座れても座席のラシャは切り取られ、座席は木が剥き出しになっている。そんな座席に座れたとしても、向かい合わせの座席の間にまで乗客が立ち、そいつらの荷物が顔や頭にぶつかる。こらえかねて荷物を膝の上に置かせ様としても、声をかけられた方はかっぱらわれるのではないかと荷物を背負い続ける。乗客の皆が生きる事に必死で他人の事などかまわずに立ち続け、苦痛に耐えていた。

 九州から東京の実家に帰り着くのに5~6回も列車を乗り換え、二日がかりで帰り着いた。とはいっても家は空襲で焼け、跡地にバラックを建てて父親と弟の勝利が雨露をしのいでいた。家業を継いだ兄の勝一は空襲で行方不明となり、母は妹をつれて秩父の実家に身を寄せていた。家を建て直して母と妹を呼び寄せたいが、弟の勝利は商売をするには年若く、兄を亡くした父はその気力も失せて勝蔵の姿を見てもただ涙を流すだけだった。

 勝蔵の守備した南海の島は戦争中といっても比較的平穏で、時に敵の戦闘機が機銃掃射に来るくらいだった。米軍が島民の平穏を乱すまいとしたのか、本土攻略には不要と判断したのかは判らないが、あまり戦場らしくなかった。米軍から見てもそんな島だったから、日本からも見放され最後の補給船が来てから約1年半後に敗戦となった。

 それに比べると復員後の生活はまるで戦場の様だ。生きるために必死に何かしなければヤミ米も買えない。食料は配給されるはずだが、それが何日になるかは判らないし、米が配給されるとは限らない。とにかく毎日が食うための戦いだった。空襲された工場の後片付けから屑鉄屋を始めてどうにか食いつなぐうちに朝鮮戦争が勃発し、日本には米軍の後方支援基地として好景気が訪れた。戦前に植民地だった韓国の人々の血で贖われた景気だったが、俗に言う『朝鮮特需』で勝蔵の屑鉄屋も繁盛し、母と妹を秩父から呼び戻せた。

 屑鉄屋で小金を貯めた勝蔵は父に電気屋を再開してやり、実質的経営は弟の勝利に任せた。朝鮮特需でようやく余裕の出た人々が娯楽を求め、勝利の電気屋では新型の5球スーパー式のラジオがよく売れた。特に、勝利自身がラジオを組み立ててメーカー品より安く売るので飛ぶ様に売れ、アルバイトも雇って作り続けた。

 近所で兄弟の商売が好調らしいと噂になると、勝蔵に見合いの話がきて仲人の家で見合いをした。佳子という娘は美人ではないが清楚であり、復員してからは食うために一心不乱だった勝蔵は見合いの席で佳子に一目惚れし、佳子の夢を見ては夢精し、抱きたい欲望が抑制の効かぬほどあふれた。結婚話はトントン拍子に進んだが、結婚前にデートをして佳子を抱ける様な時代ではなかった。勝蔵は我慢できずに結婚の半月ほど前に夜の街で女を買ってしまった。

 結婚式は地元の神社に頼み、披露宴も地元の料理屋で行ったが、兄弟2人で屑鉄屋と電気屋を切り盛りしていては新婚旅行に行く余裕もとれず、初夜もその料理屋のお世話になった。それでも新婚生活は楽しく仕事のはげみにもなったが、半月くらいすると勝蔵は股間に異常を感じて医者へ行き、家族には内緒で梅毒の治療を始めた。その後、女房の佳子も体調を崩したが、妊娠だろうと気にもとめなかった。

 佳子が倒れたのは新婚4ヶ月を過ぎた頃であり、医者の診断は勝蔵と同じ梅毒だった。悪い事に佳子の場合は梅毒が脳に回り、下半身から麻痺が広がり起き上がる事も出来なくなった。父親は『梅毒持ちのふしだら嫁は実家に帰せ』といきり立ったが、勝蔵は女房に梅毒を移した事は百も承知していて、すべて母親に話し一生佳子の面倒を看ると誓い、身を粉にして働き、看護もした。

 やがて朝鮮戦争に停戦協定が成立すると、勝蔵の屑鉄屋も、勝利の電気屋も伸び悩む様になった。そんな時、テレビや洗濯機や電気冷蔵庫を日本のメーカーも作り始め、勝利が売り、勝蔵は屑鉄屋をやめてテレビなどの取り付けを行う様になった。それまでの電気製品といえば、電球、ラジオ、扇風機などの小物であったが、戦後に普及したテレビ、洗濯機、冷蔵庫は大型の電気製品であり、特にテレビはアンテナ工事もしなければならない最先端の電気製品だった。そんな電気製品の変化は、技術の兄と営業の弟の連携プレーで店を発展させた。

 商売の繁盛は金銭的な余裕と引き換えに、勝蔵から佳子を介護する時間を奪い、仕方なく主治医の紹介で若い看護婦を佳子のために雇った。これが良く出来た娘で、佳子は病人臭さも出さずに寝たきりで約20年を生き、静かに息を引き取った。佳子を看た看護婦も独身のまま40歳を過ぎ、人生の大半を佳子の介護にささげてしまった。この看護婦が勝蔵の後添えとなったのは佳子の一周忌のすぐ後であった。