終末思想は行き場が無い。

 1月7日のブログ『宗教にはハマるわけがある』では終末思想の事を『弱者の反撃』と書きました。終末思想のキーワードである『最後の審判』や『神の王国』は、信者がそれを思い浮かべるだけでドーパミンの分泌が増加し選民意識が高揚するはずです。
 しかし、終末思想で神の王国に行けるのを信じるならば、自分は死んで最後の審判を待ってもよいと私は思います。自殺するまでもなく、核戦争も望まず、波風立てずに『良い人。人格者』と尊敬されて静かに一生を終わればよいのです。
 なにも、信者以外の人間を死に引き込む様な思想をもてあそぶ事はないと思います。そんな事をするから私は終末思想好きの新興宗教を『弱者の反撃』と言うのです。
 
 終末思想の行き場が無いのはなぜでしょうか。これは、国家が国民を団結させるために外国を敵とするのに似ています。
 すなわち、団結を高めるには敵を作るのが一番簡単なのです。しかし、同じ事を繰り返し言っているだけでは団結がダレてきます。団結力を維持するためには、『来るぞ。来るぞ』と言いながら徐々に危機感を高めるしか方法が無いのです。
 その結果。国家が外国を敵とするプロパガンダの行き先は戦争であり、終末思想の行き先は集団自殺か無差別殺人か核戦争待望なのです。
 
 団結のために敵を作っても、人間は長期の緊張に耐えられる様にはできていません。徐々に高められた緊張であっても、いつかは限界を超えてしまうのです。
 残念ながら終末思想の破壊は破滅です。神の王国は神が用意するものなので、スクラップビルトの思想がありません。次に何を生み出すかの希望の無い、本当に行き場の無い終焉なのです。
 まあ、下手にスクラップビルトを考えると、オウムの様に自らが支配する独善国家になってしまいます。
 
 宗教とは、世の多様性を認めぬ迷惑な哲学であります。特に一神教は他宗教を敵視します。しかし、生物の進化にも前生物の残痕がある様に、人間の進歩にも前文明や前文化の残痕があります。
 私は、キリスト教の『アーメン』など、エジプトの神『アモン』の残痕だと思います。また、聖書は詳細に記録したがゆえに様々な疑問を感じます。例えば、エリコの戦いなどは、明らかに記述者側の見方でありエリコ市民がどう思っていたかは知るすべもありません。
(過去の歴史は強者の記録です・未来の歴史はどうなるでしょうか)