多神教、一神教、そして無神教。

(無神教はこのブログを書くための仮造語です)
 多神教は多数の神々が存在する宗教で、ギリシャ神話ではゼウスを始めとした多数の神々が語られ、多神教はどちらかといえば原始宗教や古代宗教に分類されます。
 神様の数の多いのは日本をおいて他にないでしょう。とにかく800万(やおよろず)の神々がいて厠にもかわや神(現代名:トイレの神様)がいると言いますが、子供の頃には神よりも悪鬼の住み家と感じました。
 
 話はそれますが、本当に肥溜め式の便所は寒いし落ちそうだし、家の中では恐ろしい場所でした。終戦直後の苦しい時代には便所に落ちて死ぬ子供がいましたし、授乳中に死ぬ乳児もいました。その実情は生活苦から子供を頭から便所に投げ込んだり、乳房を顔に押し付けて間引いたのです。
 
 話は戻りまして、文明が進むと一神教が発生します。すなわち政治機構と宗教は一致するのです。集団が小さければ集団の中に職能などにより指導的立場の人が複数できます。それらの人々を神の代理人とするために多神教が必要だったのです。
 絶対君主の王ができると王を神の代理人とするために唯一神が生まれます。そのため宗教も多神教から一神教へと変化し、多神教の神々は妖精などに変身しました。
 
 無神教はこのブログ用の仮造語で、神のいない宗教(教え)という意味です。私は儒教がそれに当たると思っています。
 儒教では名のある神は存在しませんが、その代わりに『天命』という概念で考えます。宗教と儒教の違いは、生きていくための規範を神が定めるか、天命という言葉で人間哲学で考えるかの違いだと思います。
 
 神のいる宗教が良いのか、神のいない人間哲学が良いのか判りませんが、世界を見回すと経済対立で発生した紛争が宗教でより深刻化している様な気もしますし、儒教の生まれた国である現在の中国を見ても哲学による規制が利いているとも思えません。
 でも『自分がやられたら嫌だと思う事は他人にやらない様にする(己の欲せざるところ人に施すなかれ)』たったそれだけでも人間の軋轢はずいぶん減るのではないでしょうか。
 
(考えても実行できず大人になれない内蔵助です)