他人の痛みなら我慢できる。

 私が子供だった頃の思い出ですが、母が野菜を刻んでいて指を切りました。木綿の布を裂いて包帯をするまで『血が出てるよ~!痛くない?』などと心配しましたが、包帯をして血が見えなくなったら『今日のゴハンなあに』と母に料理を続ける事をせがみました。
 私は会社を辞めてから時々パンを捏ねピザを焼く様になりました。トッピングの玉葱をスライサーで切っている時に手が滑り、人差し指の皮をそいでしまいました。バンドエイドを貼りましたが血が滲み水もしみます。女房が留守だったのでピザ作りを続けましたが些細な怪我が調理の邪魔をします。心の中で(私は母になんて残酷な事を言ったのだろう)と反省しながら自分の不注意で怪我した事を恨みました。
 
 今日で東日本大震災から1年になりますが、被災者以外はみんな子供の頃の私の様に被災者の痛みを自分の痛みとして感じる時期を通り過ぎてしまった気がします。
 それは政治屋の思惑による対策遅延にも原因があります。緊急な災害増税もやむなしと思った国民の気持ちを消費税の増税と結びつける政治屋根性にあきれ果てました。また、2020年にオリンピックを招致して日本の復興を世界にアピールしようなどとたわけた事を言う政治屋や、今まで蓄えた資金のうち4千億円の支出を容認するなど政治屋とその取り巻きは被災者の痛みなど気にもとめません。
 私は『その4千億円を復興資金に回せよ』と思うのですが、資金を捻出した連中は『自分達で捻出した金だからオリンピック以外には使えない』と被災者の痛みを自分の痛みとして考えようとしません。もちろん私もわずかな義援金は寄付しましたが、自分の金の大半を義援金としては拠出しませんでした。
 
 人間が生活すれば、他人の生活よりも自分の生活を優先し他人の痛みは口先で心配するだけで自分の生活を大切にします。それは生存権として保障され、生存権は時に正当防衛の殺人も許容します。
 でも、生存権を盾にそんなに肩肘を張って自分の生存エリアを拡大しなければならないのでしょうか。人間は群れて生活する生き物です。自分の生活を優先して肩肘を張れば隣の人に迷惑がかかるのは当たり前です。
 大部分の不条理の原因は自己中心的な自分の生存エリアの拡大に起因すると思います。ほんの少しだけ必要以上に突っ張った肩肘をすぼめれば、それだけで世の中が過ごしやすくなる気がするのは甘い考えなのでしょうか、それとも愚かな考えなのでしょうか。
 
(こんな事で足踏みして大人になれない内蔵助です)