藤原先輩の苦悩。

 カルロスとエミの最初のCDはミリオンセラーになったが、販売戦略だった『東洋の妖精』が出てきたので、フランス国内では2枚目以降のCDの売り上げは伸びなかった。だが、それまでの宣伝効果が功を奏し、カルロスとエミは演奏旅行に世界中を飛び回り、スケジュールも2年先まで埋まっていて、日本でも演奏会を開き、エミは両親だけでなくお爺ちゃんにも会う事ができた。
 
 その2人に比べると、俺の紗綾子さんへの思いは片思いのままだった。先輩の妹さんだし、家柄が違いすぎるし、俺から紗綾子さんに告白する事はできなかった。そんな時、先輩から個人的な話をしたいと家に呼ばれた。
 奥様は紗綾子さんと一緒に外出していた。先輩と俺は机をはさんで向かいあい、何となく気まずい雰囲気の中、おもむろに先輩が『恵美子さんが見つかり、演奏旅行で日本にまで行けて良かったな。カルロスとの生活も落ち着いている様だけど、お前は将来設計をどんな風に描いているんだ。』と尋ねてきた。紗綾子さんと結婚したいなどとは口が裂けても言えないので、曖昧に「先輩に付いて行く事だけに精一杯で考えていませんでした。」と言うと、すかさず『嘘はつくなよ。一時期は仕事を辞めてでも恵美子さんの事を探そうと考えていたじゃあないか。』ととがめられた。
 俺が口ごもっていると『いま私は、青木という後輩を引っ張った事を後悔している。』と言ったので、思わず「えっ。エエ~ッ。」と言葉に出してうろたえてしまった。
 『いや、悪い。私の言い方が悪かった。気分をこわさないでくれ。』と先輩も慌てた。そして『悪く取らないでくれ。実は、私はお前を手足の様に使うつもりでいた。』と言うので「俺もそのつもりで付いてきました。今もそう思っています。」と答えた。先輩は当惑気味に『そういう意味じゃあないんだ。どうも紗綾子がお前の事を好きらしい。』と言ったので、俺は心臓が喉まで飛び上がり、顔が真っ赤になり、足が震えて声も出せなかった。そんな俺を見て、先輩はすべてを察したのだろう。静かに話し始めた。
 
 『私は、クリスマスイブに初めてお前を紗綾子に合わせた。財界人の御曹司でも、公家の血筋でも、それこそ皇室にも嫁がせられる様に紗綾子は育てられた。だから紗綾子がお前に惚れるとは思わなかった。それは私のうかつさだと思っている。』それを聞いて俺はグラスも使わずに目の前のミネラルウォーターをラッパ飲みしてしまった。
 『お前も惚れているな。』と言われたが言葉にならず、首を出鱈目に振ってしまった。血筋の違いすぎる先輩の妹さんを好きになるわけにはいかないが、壊れるほどに強く抱きしめたいと思ったあの日から、紗綾子さんの事を考えない日は1日だってないほどに、俺は恋焦がれていた。
 『あのクリスマスイブでお前と別れた後、紗綾子はお前の事を青木様ではなく、青木さんと呼んだんだ。私はまずい事になったなと思って、奥と紗綾子で済む買い物までお前にエスコートさせた。紗綾子がお前の事をよく見れば気持ちは自然と離れると思ったからだ。』大きくため息をついた後『ところが、そこに出てきたのがカルロスだ。紗綾子はお前と一緒になって恵美子さんを探した。そして、2人で同じ事をするうちに紗綾子はお前と心のつながりを感じてしまった。そうなっては私も観念するしかない。』先輩はもう一度ため息をついて『お前と紗綾子を引き離したくて、お前には紗綾子を送らせる事もさせなかった。それほど私は気を配っていたつもりだった。』
 先輩は俺を見て『お前も紗綾子を思ってくれているんだろう。』と聞いた。今度は俺も首だけを振るわけには行かない「紗綾子様とは血筋も違いすぎます。紗綾子様は雲の上の女性です。」と答えた。『いや、お前の顔を見れば、お前の気持ちは判る。紗綾子と結婚する気はあるか。』と聞かれて俺は何も答えられなかった。ただ、なぜか涙が流れてしまった。
 
 俺の涙を見た先輩は『後は俺が何とかしよう。ただし、藤原本流の紗綾子との婚姻となると色々面倒な手順を踏まなければならない。それでもいいか。』それから先輩は少し上を向いて『それだけでなく。結婚前にも、結婚後にも、藤原のしきたりを守って生活してもらう。厄介だけどしきたりに文句を言ってはならない。心しておけ。断るなら今だ。承諾したら途中でやめる事はできない。』と俺に釘を刺した。
 紗綾子さんと結婚するに当たっては、菊池を先祖とす俺は熊本にゆかりのある元貴族の細川家の養子の形を取ってから紗綾子さんと結婚する事になるとか。親子で旅行に行くにしても父親と娘、母親と息子は同じ乗り物に乗ってもよいが、家族全員が同じ乗り物に乗って事故などで血筋が絶えてしまわない様にする。先輩に男子が生まれない時には、紗綾子さんの産んだ男子は先輩の家の養子になる事も決まっていた。細々としたしきたりは一気には覚えられないほどあると言われた。それと「俺」という言い方もしてはならないと言われた。
 
 俺が承諾したので先輩は藤原一族の事を話し始めた。何より驚いたのは日本という国の考え方だった。皇室史観に基づいた右翼も右翼。街で街宣車に乗っている右翼よりも右。極右の思想だった。
 藤原一族の在り方と皇室史観を話す時も、天皇陛下と言ったのは最初の1回だけで、後はほとんど『あのおかた』で通し、『宮様』も時々しか使わなかった。俺は武士が殿様のために死ぬのなら、先輩は『あのおかた』のために死ぬだろうと感じた。
 驚愕したのは『天皇制を廃止するなら京都を独立させる。』という言葉だった。俺が唖然としていると、先輩はさらに『京都府は必ず独立できる。日本の経済界も政界も元公家の我々を無視しては成り立たない。できれば奈良と滋賀も含めて独立させる。』と言い切った。
 先輩の話を聞きながら、俺は先輩の苦しみの深さを知った。俺が紗綾子さんとの事を断っても先輩は苦しむだろうが、紗綾子さんとの結婚を承諾した苦悩の方がより大きいのだと感じた。
 とにかく先輩の頭の中には、俺が承諾した時と断った時にすべき事が出来上がっていた様だ。もし、俺が断っていたらどうなっていたかは俺にも予測できる。しかし、承諾した今後に何があるのかは計り知れない。すべてを先輩にゆだねるしかないのも、ある意味で恐ろしかった。
 
(- 了 -)