戦時中の疎開に似ているな~。

 各地の自治体が、ホテルが、旅館が、民宿が、一般家庭が震災避難の方々を受け入れている。テレビに流れる映像を見ているうちに太平洋戦争中の疎開の話を思い出した。
 本土が米軍の空襲を受けるようになって神田須田町は危険だからと、小学生の兄と腹の中の私は母の実家に自主疎開した。疎開先が母の実家だったので、強制疎開の人々の様な不自由はなかったが、それでも兄は昭和24年に東京へ戻るまでイヂメられたという。
 会社の先輩に学童疎開(強制)で諏訪に行かされた人がいて、地元の子供によるイヂメや、食糧不足により栄養失調になったという。親が持たせてくれた煎り豆を地元の子に見つからない様に仲間と隠れて食べたとか。栄養失調で疲れやすく真夏に学生服を着て日向ぼっこしたとか。電波兵器に使う酒石酸を作るブドウ液を、体が小さかったので樽底に下ろされてバケツで汲み出した話を聞きました。
 今はそんな心配はありませんが、見知らぬ土地で子供は子供なりに気をつかうものです。それを乗り越えていつまでも友達として親交を持てるチャンスにしてほしいと思います。