似ている?『災害避難≒戦争疎開』

 私が母の腹の中で自主疎開した時、母と兄が母の実家に行き、父は東京に残って印刷所の仕事を続けた。しかし、鉛合金の活字は弾丸用に供出(無償です!!)させられた。
 最初は擦り減りはじめた活字を供出したが、戦局が悪化すると半強制的に活字と一緒に鉄材として印刷機まで供出させられ印刷所は廃業した。福島第一原発20Km圏の立ち退きも、廃業せよとは言っていないが、父が仕事道具の一切を取り上げられたのに似ている。
 その後の父には消防隊長という名目が与えられ、神田須田町から郊外の杉並区に引越し、婦人会のバケツリレーなどの消火訓練や竹槍訓練の指揮をとったが、実生活は商店の手伝いをして糊口をしのいだそうだ。(社長も会社が無なくなりゃ只の人)
 母子3人となり昭和24年に東京に戻ったが、兄は3階建ての須田町の家を知っていたので杉並の中古の2階建てをみすぼらしく感じたらしい。とはいえ、駅からは一直線の道路の角地だったから、後に銀行が売ってくれないかという事で、更に都心から離れた所に住む事になった。
 家族が離ればなれになって暮らさなければならない事態は、災害であっても戦争であってもよく似ている。特に、立ち退きさせられた原発20Km圏内の住人の流転はなにか我が家の流転の様だ。
 ただ、災害は頻繁にはやってこないし、国内には被害を受けない地域もある。だが、戦争は発電所や工場や水道施設の生活インフラを爆撃し、全国的に日常生活を破壊する。爆弾には笛をつけ、甲高い音で耳の方向感覚を狂わせ、威圧し、足をすくませる。戦争では人間を殺すために毎日敵がやってくるのだ。