俺は土日も無く働く。

 先輩の奥さんがパリに来てからの俺は更に忙しくなった。休めるはずのたまの休日も先輩の奥さんをあちこち案内するプライベートな仕事が入ってきた。実際にパリを案内するのは紗綾子さんで、俺はボディーガードで荷物持ちで、遠出をする時のドライバーだった。
 自分の女房なら先輩がエスコートすべきなのに、先輩も仕事をしているので文句も言えない。先輩の奥さんと紗綾子さんに振り回される様に買い物から観光名所までついて回らなければならなかった。
 こんな事ではエミ探しは無理だと思っていたら、偶然に入ったスパニッシュレストランのランチタイムにカルロス・モレーノがフラメンコギターを弾いていた。
 
『青木さん。』
「なんですか。紗綾子さん。」
『あのギター弾き。カルロス・モレーノというらしいですよ。』
「エッ。どうしてそれを。」
『入り口の黒板に書かれていました。これ、フラメンコですよね。』
「フラメンコですが、まさか演奏者がカルロス・モレーノだとは思いませんでした。」
『お義姉様。私、フロアー係の者にギタリストの事を聞いてきます。』
「奥様。ギタリストのカルロス・モレーノは行方不明の妹の元恋人です。」
『主人から少しですが青木さんの事情は聞いています。』
「奥様。大変申し訳ありませんが、わがままを聞いていただけないでしょうか。」
『あのギタリストに妹さんの事を聞きたいのですね。』
「はい。今すぐにでもエミの事を問い詰めたいし、殴りつけたい気分です。」
『お気持ちは判りました。私は紗綾子さんと帰ります。』
「アッ。紗綾子さん。お手数をお掛けしました。」
『お義姉様。それはいけません。一度家に戻り、私と青木さんでまた来ます。』
「紗綾子さん。気がせいてそんな悠長な事はしていられません。」
『青木さん。安心してください。モレーノは夕方もここで演奏します。』
「いや、しかし。」
『青木さん。落ち着いてください。一度帰って、花束を持ってここに戻りましょう。』
「エッ。紗綾子さん。花束なんか持ってくるんですか。」
『青木さん。紗綾子さんの言う様に、カルロスを警戒させない方がいいと思います。』
「判りました。カルロスが夕方も演奏するならそうします。」
 
 奥様を送り、花束を持って俺だけでカルロス・モレーノに会い行くと言うと、紗綾子さんが男同士では何が起こるか判らないから一緒に行くと言い、奥様も同意見なので俺が折れた。奥様は先輩に直ぐに電話をかけ、紗綾子さんも先輩に一通り説明した。
 
『青木さん。兄はどんな結果でも戻ってきて聞かせてくれと言いました。』
「紗綾子さんも行ってくれるのですから喧嘩にはなりませんよ。」
『兄も妹さんの事は心配していますから様子を知りたいのだと思います。』
「そろそろ出かけたいのですが。」
『花は途中で買いましょう。行ってまいりますお義姉様。』
「奥様。お買い物の予定を変更していただきありがとうございます。」
『青木さんも紗綾子さんも気をつけて。』
 
 レストランに着いた時にはギター演奏が始まっていたが、俺の耳にはギターの音など聞こえなかった。早く演奏が終わらないかとそればかりを考えていた。
 演奏が終わり俺が立ち上がると、紗綾子さんが俺の手から花束を取り、先に立ってカルロス・モレーノに近づいた。フランス語で演奏を賞賛して花束を渡し、そして『少しお話をお聞きしたい。』と今度はスペイン語で話しかけた。
 カルロスはスペイン語を話す紗綾子さんにビックリした様だが『フランス語もスペイン語もお上手ですね。』と満面の笑みでお世辞を言った。俺も一歩進んでカルロスと握手をすると、すかさず紗綾子さんが『この方は恵美子さんのお兄さんです。』と紹介した。カルロスは手を振りほどこうとしたが俺はカルロスの手を離さなかった。
 カルロスが『強く握らないでくれ。』とスペイン語で言ったのを、紗綾子さんが『手を離してあげて。』と俺に伝えてくれた。力を緩めるとカルロスは握手を振りほどいて右手をかばった。紗綾子さんが『静かに話せる所はある?。』と聞くとカルロスは花束とギターを持ち、先に立って控え室の方に歩き始めた。
 紗綾子さんはカルロスに『ここでの演奏はいつまでやるの。』などとさりげなく問いかけるので、周囲にはカルロスの演奏に感激した東洋人カップルにしか見えないはずだ。