お爺ちゃんの日記。

 そろそろウィーンに出発の日取りかなと思う頃、珍しくお袋からメールがきた。明日の午後に成田からヨーロッパに発つとの内容だった。エミの事で不安だろうと思い、メールでの返信はやめて電話すると、やはり悪い想像ばかりしていた。あまり慰めにはならないが、時々銀行から貯金を引き出しているのなら、引き出した窓口が判るから意外と簡単に見つかるかもしれないと慰めた。
 お袋からは、ケア付きマンションに入ったお爺ちゃんが心配だから、早い時期にお爺ちゃんを見舞う様にと何度も念を押された。安心ついでにと、今週末には行ってみると約束した。それなのに『必ずよ、必ず行ってよ。』と何回もお袋から懇願された。
 お袋からも言われたし、不在の間に何かあれば俺が対応しなければならないので、週末はお爺ちゃんの所へ行く事にした。交通費節約のため土曜の晩の夜行バスに乗り、東京駅の小洒落た店で朝食を済ませ、ついでにお爺ちゃんと管理室へのお土産も買った。郊外のケア付きマンションは、外観も館内の共有スペースも開放感のあるホテル的な雰囲気の造りだった。
 
「こんにちは。久しぶりだね、おじいちゃん。」
『お~、ケンチャン。健君。エ~ト、社会人になった君を何て呼べばいいかな?。』
「ケンチャンでいいんじゃあない?。」
『そうは行くかよ、学生じゃああるまいし。立派な銀行マンじゃあないか!。』
「2文字のケンという名前は呼びづらいよね。外国では楽かもしれないけど。」
『私は健一にしろと言ったんだが、国際人にするんだとパパは健を譲らなかったんだ。』
「ヘ~エ。ケンもエミもそんな意味ではいい名前だったと思うよ。」
『恵美子の事も心配だな~。悪い事になっていなければいいが。』
「昔から便りの無いのは良い便りと言うから、悪い事にはなってないよ。」
『そうだといいが、年頃の娘だけにどうしてるのか心配だ。』
「アレッ?、本でも読んでたの、少し散らかってるけど。」
『アァ。日記を捨てようか、どうしようかと迷ってな。』
「日記はお爺ちゃんの人生だし、僕の知らない我が家の歴史だよ。」
『でもな、お婆ちゃんが死んだ時に一度は日記を捨てたんだ。』
「アッ。悪い事思い出させちゃったかな?。」
『人間は生活が変わる時に過去を捨てなきゃあならん事もあるさ。辛くても。』
「すると、これはお婆ちゃんが死んでからの日記だけなんだ。」
『あぁ。そうだよ。実はお婆ちゃんが死んだ時から日記が書けなくなったんだ。』
「辛い出来事だったんだね。」
『書こうと思っても、あいつの事しか頭に浮かばなかったんだ。』
「 ・ ・ ・ ・ ・ 」
『そのうち、死にたいとか自殺の方法が頭に浮かぶ様になった。』
「ウン。」
『それで日記を全部捨てて、書く事もやめた。』
「ウン。」
『ところが、パパが同居しようと言ったのでまた日記をつけ始めた。』
「そうなんだ。」
『生活が変わるから、自分も変わっていくだろうと思ったんだな。』
「このノートが全部日記なんだ!。」
『ノートに書くのが昔からの習慣だし。まあ、色々書いてある。』
「ウン。ところで何冊あるんだろう?。」
『介護される様になった時、誰かに読まれても困ると思って処分を考えたんだよ。』
「僕は知りたいよ!。捨ててしまった日記も読みたかったな~。」
『う~ん。なら、お前に日記を預かってもらおうかな~。』
「読んでも構わないと言うなら預かるよ。家の歴史も知りたいから。」
『それじゃあ最後のノートは書きかけだけど、それも持って行ってくれ。』
「普通のノートなんで、これだけあっても嵩張らないから今日持って帰るよ。」
『管理人さんに紐でも貰おうか?。』
「僕の鞄は2~3日の海外出張ならそのまま飛行機に乗れる優れものだぜ。」
『オ~ォッ。チャックを外すと幅がそんなに広がるのか。』
「ハイ。全部入りました。」
『新しい日記は読まれても構わない様に、今日、ケンチャンが来た事から書こう。』
「ありがとう。1ページ目に僕の事が書かれるのはうれしいよ。」
『しかし、エミの事は書けないな。』
「そうだね。」
『そうか。今日からはルーズリーフノートにしよう。読まれたくなければ破ける!。』
「それも、アリだね。」
 
 お爺ちゃんと一緒に館内を見て回り、喫茶室でコーヒーを飲んだり、ロビーで話したりした。ロビーではお爺ちゃんに話しかけてくる人もいて、何か楽しそうに見えた。多分、お爺ちゃんといたのは4時間くらいだったろう。明日の勤めもあるからと分かれを告げて、帰りは新幹線を使った。