歯車の1つになって。

 俺が藤原先輩に一本釣されて入社した2年目の夏に、突然妹から電話がかかってきた。半月ほどの予定で日本に帰ってきたそうだ。
 
『お兄ちゃん、関西系の銀行なんかに就職して!そんなに東京に戻りたくないの?。』
「いつ帰ってきたんだよ。お袋とも電話してなかったから、知らなかったな~。」
『知ってた所で、妹に会うために東京に来る気もないくせに!!。』
「嫌味はよせよ、忙しくて東京に行く暇がないんだよ。悪いけど。」
『やっぱりね。でもなんでそんなに忙しいの。銀行なんて暇だと思うけど。』
「仕事は普通だと思うけど、なぜか忙しいんだよ!。」
『変だな~?。言ってる事がおかしくない。』
「確かに説得力はないな。だけどな。」
 
 俺は簡単に藤原先輩の結婚式の事から話した。
 先輩の正式な結婚式は藤原家のお屋敷で行われたが、そこに招かれるのは一族の者と他のお公家さん。それも本家筋の一握りの人でしかなく、そこに俺が招かれる事はなかった。もう一回の結婚式は京都の有名なホテルを借り切って、大小いくつものホールに政財界人から有名社寺の方々まで。それと、本家で行われた結婚式に招かれなかった藤原家の外戚の者や先輩と新婦の友人知人がいた。
 それぞれのホールの招待客に藤原先輩と新婦が一通りのお披露目を済ませた後、俺は先輩に連れられて政財界人の集まっている一番大きなホールに連れて行かれ、覚えきれないほどの人に引き合わされて挨拶をさせられた。
 先輩とは卒業前から頻繁に連絡する様になり、入社後は関西本社の秘書課に配属された。この銀行の秘書課は総務部などに所属するのではなく、部長のいない専務直属の独立組織だった。そして、秘書課こそがこの銀行の真の経営実態である事も判った。そして俺が藤原先輩の影武者の様な立場である事も理解した。藤原先輩が地方に配属されている間は関西本社の秘書課に勤めて本社の動きを先輩に伝える。先輩が関西本社に戻れば俺が先輩の後釜として先輩の後任人事に抜擢される事になる。
 
「そんな訳で、俺は銀行と先輩の2人の雇い主に仕えている様なもんなんだ。」
『聞き疲れた。東京まで会いに来なくてもいいよ。でも、好きだよお兄ちゃんの事。』
「俺もお前の事は心配しているよ。充分な事がしてやれなくてゴメンな。」
『ウウン。充分にやってもらっているよ。じゃあ、またね。』
「お前もがんばれよ。ピアノ。」
『ありがとう。』
 
 自分自身が忙しくて実は妹の事はあまり考えていなかったが、妹がウィーンの音楽学校に入ってから2年にもなるのか。ピアノで食っていけるようになるまで、あと何年かかるのだろう。ヨーロッパか日本のオーケストラに入れればよいのだが、それは本当に一握りの人でしかない。一流を目指して頑張る妹の苦労とプレッシャーを考えるとかわいそうになってくる。
 家族のそれぞれが苦労と悩みを抱えていても、他人から見れば親父は一流企業の重役。お袋は舅の面倒をみながら家を守る理想的な専業主婦。息子は一流銀行に就職。娘はヨーロッパでピアノの勉強。まるで絵に描いた様に幸せな家族に見えている事だろう。