正論は時に人を苦しめる事がある。

 正論は正しいがゆえに反論を許さない事がある。正論は正しいがゆえにあらゆる手段を否定する事がある。正論は正しいがゆえにあらゆる手段を許容する事がある。
 そして、正論の最大の欠点は正論の正しさを検証させない事である。ゆえに、正論自体の真偽すら問う事ができない。
 
 正論のもう一つの欠点は、正論が解決策ではなく目標である事だ。それにより、正論達成のために様々な解決策が許容されたり、否定されたりしてしまう。
 『テロとの戦い』と言えば殺人が許される。『聖戦』と言えばテロが許される。どちらも、それぞれの当事者にとっては正論である。それが大正論の『平和』という目標達成のための一つの解決策的正論であれば、当事者内では正論の真偽は論じられない。
 太平洋戦争では『大和魂』という馬鹿の一つ覚えですべての反対意見を抑えた馬鹿大将がいた。『神風』という作戦はパイロットを消耗する戦法であり、パイロット育成の難しさを御前会議で具申したら、その馬鹿大将が『大和魂で事に当たれ』と封殺したという。
 こんな馬鹿大将は複座の練習機に乗せて高空に達したらパイロットはパラシュートで降りてしまえばよい。上空で馬鹿大将がガタガタ騒いだら「大和魂で操縦して着陸しろ」と言えばよい。
 
 まあ、正論の最たるものは宗教だろう。人の世なんて時代で変わるものだが、宗教の根本は正論だから変わらない。すると時代に合わせた解決策的正論が生まれるので、宗教には多数の宗派が出来た。私はそう思う。
 共産主義には宗教と同じ様に正論があるから、ソ連では正論の競合する宗教を禁じた。宗教は他宗教を排斥する原則から推測すると、ソ連共産主義は限りなく宗教に近い社会体制だったのではないかと思う。勿論、正論を振りかざして意見の封殺も行われた。
 70年代安保闘争の流れの淀みの中で浅間山荘事件が起こり『共産主義革命にそぐわない』と自己批判させ仲間を粛清までした。それは、正論という錦の御旗を手にする者の恐さを『すべての人間が内在している』という事実を如実に現している。
 
 銃が欲しい。意見封殺など銃でも可能なのだ。だが、銃による口封じは短時間で破綻する。それに比べると、正論による意見封殺は社会の変革や、思考概念の変化が起こるまで安定的に口を封じる事が出来る。