『いじめ』と『恋愛』は似ている。

  どこが似ているかというと、少なくとも1人ではできない事。ナンチャッテ!?。冗談はさておき、見かけは両方とも仲良く見える事です。
  『いじめ』における、いじめっ子といじめられっ子は、周囲には仲良く見えますし、『恋愛』も周囲から見れば仲良く見えます。では、なんで仲良く見えるのでしょう。
  『いじめ』については、自分がいじめても、いじめられっ子が先生にも両親にも黙っているし、いじめても自分から逃げていかないという安全性です。そんな確実ないじめられっ子を探すのは大変だから、いじめっ子は自分専用のいじめられっ子を手放さない様にするので仲良くみえるのです。
  そして『恋愛』もそれに近いのです。確実にSEXの処理をさせてくれる女性は、男にとって得がたいものなのです。そして、逃げていかない様に愛の言葉をかけ続けます。でも、SEXをさせてくれる女性と結婚する気は無く、もっと良い女性と出会えたらSEX処理の今までの恋人は棄てるつもりでいるのです。
 
  『いじめっ子』と『いじめられっ子』の仲良さそうに見える関係も、じっくりと見ていれば、その関係は見えてきます。教師の目のない通学経路などで、いじめっ子はいじめられっ子に頻繁的一方的にいじめとは判らない程度に手を出します。しかし、やられた相手がお返しとしての反撃をしない(できない)関係であれば、それは『いじめ』です。
  いいですか。『いじめ』と言えるのはこの程度までです。周囲の生徒や、時には教師の目の届く範囲でアザが残るほどの暴力行為が行われたら、それはもう『いじめ』ではなく『暴行』です。しかも、それが頻繁であれば教師の『仲良さそうに見えていて、いじめとは思わなかった』などの逃げ口上は教師の職務怠慢です。
  『恋愛』でも、男が結婚の話題をはぐらかす様な関係は、SEX処理のために女性を引き止めておきたいだけです。愛の言葉で女性を縛るうちはまだ良いのですが、暴力で女性を縛ろうとしたら、それはもう恋愛ではなく『支配者』と『奴隷』の関係なのです。言葉の暴力で縛ろうとすれば、それは『恫喝』や『恐喝』であり、肉体的暴力であれば『暴行』で、すべてが犯罪です。
 
  『いじめ』も『恋愛』も、一線を越せば犯罪なのですが、少年が教育現場で行う『いじめ』は、アホな教育者どもの世俗離れした判断によって犯罪となりません。
  『恋愛』も、明らかな犯罪行為が行われても、愛の喪失を恐れて犯罪の立証を拒みます。そして、愛を失うだけでなく、時には命を失ってしまう事もあるのです。
  命の喪失だけでなく、暴力で鼻が曲がったり、耳や目がつぶれて、次の恋愛の機会を失うという人生的な喪失もあるのです。
 
  動物園のサル山を見ていれば、力の行使は必ず強者から弱者に向かいます。サル山でも威嚇などの暴力は次々と、より下位の猿に伝わり、最後には親から離れている子猿を最下位の猿が噛むなどの事が起こります。でも、親から見える所にいる子猿が襲われる事はめったにありません。そんな事をすれば最下位の猿は親猿にこっぴどく制裁されるからです。
  そんなサル山の騒動を見ると、私は『いじめ』は地球上の生命に刷り込まれた習性なのだと考えてしまいます。しかし、私達人間がそれでよいのだろうかと反省もいたします。