もし『デスノート』をすべての人間が持っていたら。

  現在のシリーズの前に1回だけ『デスノート』を見た事がある。まあ、私の趣味じゃあないから2度と見なかったけど、ストーリーとしては面白い設定を見つけたものだと思った。
  2度と見なくなった理由は、私は特権を認めないので『デスノート』も一種の特権と感じたからである。
  それでは『デスノート』が特権でなく、すべての人間が持っていたとしたらどうなるだろうかと考えてみた。
  結論は、多分、最後の1人になるまで人間は『デスノート』に他人の名前だけでなく、親であれ、兄弟姉妹であれ、子供であれ、孫の名前までも書き続けると思った。
 
  生命誕生以来、生命は常に死の危険と隣り合わせで生きてきた。ゆえに、生命は死の予兆である苦痛に耐え続ける事はできない。
  原始的な生命は苦痛の原因から逃げるという手段を取るが、脳が発達すると、苦痛の原因を自分で取り除く知恵が出てくる。
  しかし、その原因を取り除く方法に危険があれば、生命は時に苦痛原因の除去をあきらめる事になる。そして、忌避したり逃走する手段をとる事となる。
  すなわち、苦痛原因の除去が簡単であれば、絶対に除去をあきらめないだろう。
  そして、人間は武器を手に入れた。銃など、ほんのチョット指を動かす事で苦痛原因を取り除ける。『デスノート』は銃よりも簡単に苦痛原因を除去できる。ゆえに、『デスノート』をすべての人間が持ったとしたら、人間という種はいなくなると私は考える。