人は人ならぬものに恋をする。

  おとぎ話にはかぐや姫や雪女から信田(信太)狐まで、人ならぬものを妻とする話が沢山ある。また女性の場合は人ならぬものから言い寄られるおとぎ話もあるが、夫婦になる前に物の怪の正体がバレてしまう。
  何で人ならぬものを妻とする話が沢山あるのだろう。不思議である。しかも、ほとんどは子供ができると人ならぬものの正体がバレて、妻は元のすみかに帰ってしまう。
 
  そんなおとぎ話のパターンは、男は貧乏だが心が優しいというのも、ほぼ共通している。しかし、あまりの生活苦に耐えかねて適当なところで正体がバレて、女が逃げてしまうというのも現実を物語っている気がする。
  まるっきり別の考え方として、日本にも獣姦の習慣があったとする根拠と考える人もいる。まあ、どちらも現実となるとせちがらい話であり、それでは夢も希望もなくなってしまう。
 
  私の考える人ならぬものとの恋のおとぎ話は、現実世界では永遠の恋など望めないから『ヒョトして、人間以上の存在とならば永遠の恋が結べる』と、ロマンチックに考えるからだと思いたい。だかといって、人間以上の存在はどんな姿かたちなのか判らないのでおとぎ話にならないから、人間の形はしていても正体は人ならぬものというパターンにするのだと思う。
  そう考えると、映画でも霊魂や幽霊や宇宙人との恋物語があるから、人ならぬものとの恋の願いは世界共通で、人間の心の奥底にある愛を求める気持ちなのだと考えられる。
 
  ところがどっこい。おとぎ話でも正体がバレると女房は逃げてしまう。人ならぬものとの恋であっても、永遠の恋は厳しいのだ。
  たまには、尽くして尽くして尽くしまくって、骨と皮にやせ細って『あなたを愛しています。死んでもあなたが好きです』という様なおとぎ話はないものかと考えてみるが、男のために尽くしまくるおとぎ話を、私は知らない。
 
  だが、現実にはそんな事がたまにある。女性から告白し、男のために尽くしているのが傍からは判るのだが、尽くされている男は『あいつはそういう女なんだ』と何とも思わなかったり、時には鬱陶しがったりと、男は粗略に扱うものである。
  人ならぬものとの恋まで空想しながら、現実にそれが起こってもそれに気づかない。愛を求めながらも愛に応える事をおろそかにしては、たとえ人ならぬものとの理想の愛であっても、結局は逃がしてしまうのだと、私は考える。