人間の心の底にある差別の感覚。

 日本にも明治時代になるまでは『士・農・工・商』と、それに属さない『非人』の身分差別があった。特に『非人』については戦後も部落問題として残り、現在もあるマスコミが橋下大阪市長の出自を記事としてトラブルるなど人間の心の中では生き続けている問題である。
 差別は、性差や民族差や職業の違いから生じる差別と、政治が作り出す差別がある。『士・農・工・商』は徳川幕府の政治的差別であるが、哀しい事に人間の心には生まれながらに差別の感情がある。
 
 少子高齢化の進む日本では老親介護の問題が表面化し、老親の介護を家族(子供)ではなく、お金により他人が看る様になってきた。それなのに、介護される老人に差別の気持ちのあるのが哀しい人間のさがである。
 老人がどの様な差別感覚を持っているかというと、医者には媚び、看護師には感謝を示すが、一番自分を看てくれて下の世話までしてくれる介護の人を軽蔑するのである。
 
 なぜ人間には差別の感情が生じるのだろうか。根本は『快』『不快』の感情でないかと私は思う。それでは、なぜ『快』『不快』の感情が生じるのだろうか。多分、それは『生』と『死』にまでさかのぼるのではないだろうか。
 地球に最初の生命が生まれた時、それは非常に脆く壊れやすい命だったと思う。水に漂いながら流れ行く先が酸性の強い水であれば生命を脅かされる。すなわち、不快な環境というのは命の危機に瀕する場所であり、できうればそこから遠ざかりたいと感じるだろう。
 
 原始生命が人間にまで進化しても、その原始的感覚が残り、それが『快』『不快』という感情として残っているのではないだろうか。そして、生命に脈々と受け継がれてきた『不快』を遠ざける行動の進化が差別という形で生じたのではないかと私は考える。
 勿論、高度に進化した人間の脳であるから一筋縄ではいかず『快』『不快』も『好き』『嫌い』もあるのだが、それを単純化して考察してみると『生』と『死』が生命の根本原則の様な気になった。