人間は悩む生き物である。

 『若きウェルテルの悩み』という小説もあるが『リア王』という悩む年寄りの小説もある。そして、私も歳なみの悩みを抱える事になった。
 3月26日のブログ『親に及ばぬ息子は父とぶつかる』では、ほんの少しだけ香りを出したが、CTX700を買ってから息子どもの動きが少しおかしい気がしてならない。多分『親父には新車は買えないだろう』と思っていたろうから、その事で息子どもの頭に『?』が何本か生えたのだろう。
 
 特に、結婚をしていない方は人間づきあいが進歩していないから、言葉の端々に違和感がある。オートバイに乗るのを心配する様な口ぶりだが、どうも遺産が気になっているのではないだろうかと感じてしまうのだ。
 結婚した方は親に顔を見せる事の少ないのを除けば、家庭生活もなんとかやっている。しかし、私が退職した時に『俺は退職金をいくら使えるんだ』と分け前を欲しがった馬鹿である。今の生活でも私達の訪問を嫌がり、あまり訪ねても来ないから最近の腹の内はトンと見えてこない。
 
 少し前までは『自分史』がブームだったが、今は『遺言書』がブームらしい。私も遺言書を書いて「俺の遺言書は貸金庫に入れてある」とでも言ってみようかな。
 しかし、どうすべきか私も決めかねている。騒ぐほどの資産ではないのだが、リア王のごとくに心は乱れ、悩みは尽きない。その原因たるや、自分の行く末である事が哀しい。
 ところが、女房は実に気楽で『生まれた時1人で生きていけない様に、死ぬ時も誰かの世話になるのよ』と言う。でも、その言葉は達観から出たのではなく直感にすぎない。