個性はどの様にして生ずるのか。

 企業は個性的な人材を求めるが、就職を考える若者は『個性』という言葉を理解できないでいる。
 
 勿論、第二次性徴の現れる思春期には、個性に憧れ個性的になろうと悩む若者がいる。それは、渋谷・原宿などの若者がたむろする街を歩けば判る事である。
 しかし、大人の目から見れば、それらの若者は『没個性的』である。ガングロが流行ればガングロに、ゴスロリが流行ればゴスロリに走る。そして、それらの若者をターゲットとする商業主義者が金儲けに走り、さらに煽り立てる。
 なぜそうなるかと言えば、考えずに見たもので個性を演出しようとするからである。私は、個性とは『よ~く考えるところに生ずるものである』と考える。
 
 ここで、なぜよく考えるのが個性になるかの問いに、大勢の人間に何かの解決策を考えさせる課題を出したと仮定してみると、各人各様の解決策が示されるはずである。すなわち、各人が真剣に考えて出した答えが個性なのである。
 ただし、常識や習慣から安易に答えを選ぶと、それは画一的で没個性の解決策しか示されない。(常識や習慣を打ち砕く方法は『日本人とユダヤ人』に示されている)
 
 今年の1月13日のブログ『私の考え方を変えた本(日本人とユダヤ人)』に書いた様に、主流を外れた私だが、それが私の個性である。社内では全員一致の会議妨害をしたかもしれないが、計画が緻密になる効果はあったと自負している。
 安易に生きるには没個性がよいかもしれないが、そういう生き方の欠点は自分に代わる人材がいる事である。個性的である事は『余人をもって代え難し』と言われるチャンスに巡り合えるかもしれないが、時に日の当たらない場所を歩く覚悟もしなくてはならない。
 
 真の個性の第一歩とは、自分の行動に責任をとる覚悟のある事である。まあ、いい加減に生きて『これが私の個性だ』と言う事もできるが、そんな個性は誰からも信用されず、あてにもされない。