浅田真央はアスリート。

 日本中が期待したフィギュアスケートの真央ちゃんがメダルを逃して残念に思っている人達が大勢いるのではないだろうか。
 実を言うと、私はフィギュアスケートの様な審美点が評価される競技は嫌いなのだが、女房が真央ちゃんファンで必ずテレビをつけるから自然と見てしまう。
 そして思う。彼女はフィギュアスケーターというよりもアスリートなのだ。真央ちゃんの滑りは美しく見せる事よりも、自分の技量を磨き上げ、昨日の不可能を今日は可能に変えようと努力して見えるのだ。
 人間には様々なタイプがある。人を魅了し賞賛を浴びるタイプもいれば、黙々と自分に向かい合い自己を高めるタイプもいる。
 
 宗教においても同様である。宗派の頂点に立ち教団運営にむく人。それを支える人。そして教団に距離を置いて修行に励む人。悟りはどちらの人の方が得るのだろう。
 中国仏教に『寒山拾得』という話がある。色々な読み方や解釈もあるが、私は禅宗の人から聞いた『典座(てんぞ)は悟りを得る』という言葉を思い出す。
 典座は雑用係で主に炊事担当である。普通に考えれば下っ端のつまらない仕事であるが、人は食わなければ死んでしまうという当たり前の気づきから、人はいかに生くべきかの大命題を考える様にもなれるのである。
 
 仕事においても手広く様々な事に手を出す人もいれば、自分の信じた事を突き詰めて信用を得る人もいる。
 その様な人はよく「私は取り柄がなくてこれだけをやってきた人間です」と言うが、私は『一芸に秀でる者はすべてに通ず』と思っている。
 現代は『専門馬鹿』などと他人を嘲笑する事の多いご時世だが、一つの事に突き抜けた人間はマスターであり、時に『神の手』などと呼ばれる事もある。
 そして突き抜けた人の言葉には、経験で体得した悟りに近い人生哲学が沢山含まれている。それは自分を磨いてきたからこそ蓄えられたものである。