人間は常識をねじ伏せる理由を先に考える。

 私がまだ高校生だった頃、道路に止めてあった叔父の自動車にいたずらをした小学生がいました。いたずらを見つかった小学生は『おじさん。駐車違反だよ』と言い返したのです。
 当然ながらこの小学生は言い訳を先に考えて、抑えきれないいたずらの欲求を正当化できると信じて、或いは正当化できないまでも言い逃れられると自分の常識をねじ伏せていたずらしたのです。
 母さん助けて詐欺などでも『俺達が騙さなくても誰かが騙すのさ』とうそぶきますが、警察の取調べが終わり、裁判になると『俺達が騙さなくても誰かが騙すのさ』とは言いません。反省の態度を示せば刑が軽くなるのを常識として知っているのです。
 
 言い訳を考えた小学生は、自動車にいたずらをしてみたいという自分の欲求を抑えきれなかった。母さん助けて詐欺の詐欺師たちは、自分の利益優先の欲求を抑えられなかった。ともに、自己中心的な思考におちいり、同じ仕打ちを自分が受けたらどんな思いをするかに気が行っていません。
 しかし、昔から言われている『己の欲せざるところ人に施す事なかれ』にしたがって、自分が被害者の立場に立って考えてみれば判るはずなのです。
 
 だがしかし『己の欲せざるところ人に施す事なかれ』とは、相手にも自分と同じ権利を自ら認めるという事であり、自分の損失を過大に感じる人にとっては受け入れられない考え方なのです。
 すなわち『権利はお互いに五分五分』という理念を受け入れがたく感じる自己中な人間にとって、相手の権利を認めるという事は自分の欲求を自ら抑えなければならないという辛さがあります。
 自分の心の辛さや後ろめたさを回避する方法が『言い訳』という姑息な手段なのです。
 
 先付けの言い訳というのは自分の行為の不当性を理解しているという事であり、事後に『ああしておけば良かった』とか『こうしておけば ・ ・ ・ 』の反省の言い訳ではなく、犯罪者の確信的言い訳なので根が深いといえます。