『ヒロシ』という芸人。

 最近はあまりテレビで見かけないので心配しているが、私は『ヒロシ』という芸人が大好きだ。あの自虐ネタは他人を傷つけないし、一見突き放した言い方も面白い。他人の悪口や欠点をあげつらうのは簡単に笑いを取れるが、聞いている自分も悪口の片棒を担いでいる様で、笑いの後味が悪い。

 笑いの本質は優越感だと聞いた事がある。だから笑われると腹が立ち、笑うと気分が良い。笑いの本質が優越感ならば、芸人は個人を名指しで笑いに使うべきではない。特定個人をネタにした悪口芸は品性下劣で、それで笑う者も品性下劣な人間である。

 だが、その様な芸でも取り扱う人間を選べば笑いの質は変わる。昔、トップライトという漫才師がいた。彼らはバッタバッタと他人をなで斬りにするかの様にこき下ろした。そして、標的とされた特定個人は政治家であった。

 私人の特定個人に比べれば、政治家という特定個人は公人である。さらに、選良という品性正しき人であるべき立場の人間でもある。ならば、国民の模範となるような行いを自ら示さなければならない。それなのに、子供にも判る様な嘘をつき、一般人なら逮捕される様な犯罪を行う。

 それらに鉄槌を下したのがトップライトだった。聞いていて溜飲の下がる話芸だった。『たかが芸人。されど芸人。』のプライドで、個人をネタにするのであれば私人をこき下ろすのはやめて、公人に物申す様な芸人になれと言いたい。

 そんな小粒な芸人達の中に『ヒロシ』の自虐ネタを聞くと、『ウンウン。そうだ。俺もそうだった。』と妙に共感してしまう。『ヒロシ』は自分の事を言っている様だが、落語で言えばトラさんやクマさんの様な市井の人々の投影である。

 こうして考えると、個人を名指しで笑う芸は優越感という本質に根ざしている。だが、その根本は「イジメ」と同じである。「イジメ」も優越感という人間の本質に根ざしているので根絶は難しい。