政治家に必要なのは胆力。

 私は9月21日のブログ『尖閣諸島は国立公園特別地域にすべし』で、日本国民でも許可なく尖閣諸島に上陸できない様にすべきと書いた。それだけではない。民主党の大物政治家にそれを提案した。だが、それはなされなかった。
 庶民の提案だったから無視されたのかもしれないが、私の提案はすべての手を封じる方法であったがために無視されたと思っている。
 
 政治家は多くの選択肢のある案を採用する。その方が状況が変わった時に別の手が打てるからである。ゆえに、行動を封じる決断をしたがらない。原発ゼロだっていつの間にか骨抜きにされた。それが多くの選択肢のある案を採用する欠点である。
 だが、政治家は判断を誤ったからといって責任を取るだろうか。私は政治家が責任を取った姿を見た事がない。国会議員を辞めて責任を取ったといえるだろうか。
 
 そういう意味では大企業の社員も責任を取った事がない。何億も損失を出した銀行員が全額弁償した話なんて聞いた事がない。首にもならず出世コースから外れるくらいが関の山だ。
 ところが、個人事業主はどうだろう。百万円の損失が出れば、それはすべて自分が背負わなければならない。『自分の責任は自分が背負う』個人事業主の方が、責任が分散される無責任な大企業の社員よりも器が大きいのだ。大企業の社員の器など、何かあったら母親の後ろに隠れるガキみたいなものだ。
 
 ならば、政治家の器はどうだろう。歌舞伎ではないが『小せい小せ~い』だ。特に最近の政治家は手を封じる様な決断をした事がない。封じ手を打って非難を浴びて議員を辞めたくないのだ。
 それに比べると石原慎太郎はバカぽい決断も下す。それはいつ辞めてもいい職業と判っているからだ。だから都知事を放り出して新党旗揚げをぶち上げた。『新党旗揚げ』は、都知事での行き詰まりを誤魔化す目くらましの打ち上げ花火なのである。
 しかし、その花火に多くの人は騙され、真実の姿を見ようとしない。石原は衆愚政治に咲いた徒花(あだばな)である。
 「石原慎太郎、カッコ悪い暴走老人だ。今になって何ができるのか。ご子息方がお気の毒。」と、喝破した田中真紀子はそのあたりをよく判っている。さすがだな~。