心を蝕む言葉。

 私の9月26日のブログ『侍の心って?何の事だろう??。』の中で、私の嫌いな言葉に『非国民』というのもあると書いた。
 私の生まれは確かに戦中であり、産婆さんは『兵隊さんですよ』と言ってとり上げたそうだが、そんな記憶も無ければ戦火に逃げ惑った記憶も無い。
 物心ついた頃の記憶は、サイコロと同じ模様の描かれた立方体の紙箱にキャラメルが2個入っているお菓子が5円で買えた事。そして5円拾った時のうれしかった事。だけどその5円をどうすればよいか判らずに塀の上に乗せた事。数日経っても塀の上の5円が無くならないのでネコババしてキャラメルを買った事。それを母親にみつけられこっぴどく叱られ警察へ届ける事を教えられた事。そしていつの間にかそのキャラメルが10円になった事。
 
 そしてもう1つは『非国民』という言葉にひどく傷つき怯えた事。もはや戦中ではないのだが、子供の遊びの中ではガキ大将など年上の者が年下に向かい、何か気に入らないと『非国民』と罵った。人間は群れる生き物であり、子供は群れて遊ぶものである。その中で『非国民』と言われると群れから阻害された気持ちになり、背負いきれない罪悪感が背中にのしかかった。
 今は『非国民』などという言葉は日常では出てこないだろうが、右傾化して外国を敵とする風潮になったら、きっとまた『非国民』は復活するに違いない。普段なら小異にこだわるのが人間でも、外国が敵となると大同団結するのだ。
 
 実は、私は幼稚園や保育所で使われる『仲間はずれ』の言葉も嫌いだ。野菜などの絵の中に椅子などを書き、先生が『ハ~イ。この中で仲間はずれはどれですか。』と子供達に聞く。
 そんな光景を見ると、私は耳を塞いで外に出たくなってしまう。戦争の記憶の無い戦中生まれだが、罵声の様に『非国民』と言われた恐怖の記憶は、いまだ心の底に淀んでいる。それが『仲間はずれ』の言葉でかき乱されるのだ。
 群れて生きる人間に疎外感は大きなストレスになる。イジメ自殺なども同根だと思うし、人間は排斥したい人間に対しては差別を口にして周囲にも同意を得ようとする。周囲も付和雷同すれば排斥は成功である。
 
 そんな記憶から、私は政治ネタのブログも書く。だが、私はどうすればよいかという自案を必ず書き、不平不満を羅列しただけのブログは絶対に書かない。
 誰にだって不平不満は書ける。だが、どうすべきかという案を述べなければ話は先に進まない。たとえ稚拙な案であっても、叩き台となる案があれば議論は進み、更に良い案の出てくる可能性もあるし、悪し様に罵られる相手の策がどうして出てきたのかも判る。
 
 だから不平不満、悪口雑言、罵声、そして『バカカバチンドンヤ』や『お前の母さんデベソ』などに近い悪口を羅列した政治ブログは読む気にならない。
 政治ネタのブログにあっては、基本的に悪口でも何でもかまわないが、意見を述べる時には自分の考えを言うのが大人のやり方である。ましてや『非国民』の様な口封じの呪文など唱えるべきではない。そんな所には新しい案の芽生えも無ければ、進歩も無い。
 また『侍の心』の様に意味不明でどうとでも解釈できるし、理性を奪って感情を高揚させる言葉など使うべきではない。政治を感性であやつらずに。理性で行うべきだ。
(『侍の心』は『非国民』の対極にある呪文だ・どちらの呪文からも軍靴の響きが聞える)