『侍の心』って?何の事だろう??。

 『侍の心』というのも『他喜力』なみに判らない言葉だ。まあ『他喜力』は著者の勝手な造語だから、たった3文字の文字列を見てもその意味が判らない。知りたければ『他人を喜ばすと幸運が押し寄せる!他喜力』という本を買えという事なのだろう。
 
 それに引き換え、さすがは石原慎太郎『侍の心』ならば誰だって直感的に理解する。だがしかし、個々人の解釈はテンデンバラバラ、チャンバラバラ。
 私は葉隠葉隠聞書)を思い出してしまった。誰でも知っているのは『武士道とは死ぬ事と見付たり』だろう。よくもまあ、自分が戦場に行かない奴は何でも言うものだ。実に前近代的な事を言い出すからあきれてしまう。
 そんな奴には、とりあえず毎度の事ながら『年寄りが戦争を始めて、若者が血を流す。』と返しておこう。(記憶は定かではないが映画『ランボー』のセリフにあったと思う)
 
 葉隠に見るまでもなく、侍は己が心を捨てて主君につくすものなのだが、侍という言葉でハイになる奴はぶっ飛ぶほどハイになる。石原慎太郎の『侍の心』という言葉には、裏に様々な思惑を含んだ危険な言葉である事は確かだ。(心を蝕む嫌な言葉は『非国民』かな)
 石原慎太郎だけでなく、現代の政治家は国民の政治無関心にイラ立っているのだと思う。要するに、政治家から見れば国民の求めるものが何なのか判らないのだ。だから、石原一族の様な切れキャラ家系の人間は危機を演出して国民をまとめ様と、外国を敵とする禁断の手法に出てしまう。実に想像性の無い愚かしき政治家である。
 
 昔から国民の要望など様々でまとまりの無いものであった。だが、情報の伝達手段の少なかった昔は小異を捨てて大同に従って政党を作ったり、権力者のプロパガンダを信じて1方向に流れた。
 だがしかし、現代は一般の人々が情報を発信できる時代になった。ゆえに、大同に従わず小異にこだわる様になった。現代政治の難しさは『小異を大同にまとめる事』である。
 更にだがしかし、その難しさは政治家自身が知っているはずだ。政党の中で大同にまとまるのを嫌い、落選したくないために渡り鳥の様に離党して別の党に入党する。
 
 そんな政治家を見せられて国民はますます政治不信に陥ってしまう。己を律して国民(主君)のためにつくすのが政治家の役目だろう。『侍の心』を持つべきは政治家ではないだろうか。
 あの言葉を、石原慎太郎は自分以外の政治家に対して言ったのだろうか?。もしそうなら、私の勘違いを『侍の心』で潔く謝ろう。でも、主語を言わずにどうとでも取れる様な曖昧な言い方をしたのは、どなた様でしたっけ?。