私は消極的原発廃止論者。

 オートバイの話を続けたかったけど、それはチョット脇に置いといて原発の話を挟みます。
 東日本大震災による福島第1原発事故により原子力発電即時停止の機運が高まっているが、私はそれには賛成できない。どちらかと言えば、新しい原子炉は造らずに、廃炉の時点で順次廃止し、結果として原発をゼロにすべきだと思っている。
 原発事故の悪影響は甚大なので、原発を研究し始めた昭和30年代から、唯一の被爆国として様々な賛否の議論があった。なぜ核アレルギーのある日本が原発を推進し続けたのかという側面から考えてみよう。
 
 日本が原発を手がけたのは単にエネルギー問題のためだけではなく、研究から発電までの原発黎明期である昭和30~40年代は、貿易における国際競争力が弱かったので、原発は1億人の国民を食わせる手立てでもあった。
 原発は、たとえ外国から原子炉を輸入してでも、その建設や運用や維持管理に雇用が望めるのである。また、発電量に余裕が生じれば国内の電気産業も家電製品を増産できる。
 現に戦後は『掃除機・洗濯機・冷蔵庫』が『三種の神器』と言われて家庭が欲しがる商品であり、増え続ける電力消費をまかなうために水主火従だった発電が火主水従に移行していった。東京オリンピックの時には『カー・クーラー・カラーテレビ』が『3C』と言われて家庭が欲しがる商品になった。
 
 さて、ここで少し横道にそれてみると、戦後の日本は国内の貧しさを政策的に原発や電気産業や自動車産業など国内産業の生産性を向上させる事でしのいできた。
 それに比べると最近の中国は外国と摩擦を起こし、国民の目を外国に向けさせてしのごうとしている。私に言わせれば政治のサボタージュであり、諸外国との関係を悪くする危険な賭けであり、はなはだ迷惑と言わなければならない。
 歴史的に見れば、外国を敵視して国民の目をそらすのは政権の末期症状であり、結果的にはそれが戦争への序章となる事が多い。
 
 そうは言っても、現在の日本の政治も貧弱である。テレビのデジタル化だって時代の流れだけでなく、放送局から視聴者までの設備更改に電気業界が潤う施策であった。それ以後の経済への政治的テコ入れは、テレビのデジタル化に比べれば理念の無い小手先政策である。
 例えばエコポイントだが、税金を投入した上にそれが終われば経済の活性化も止まる成長性の無い政策だった。消費税増税も駆け込み需要で一時的に購買意欲は増すだろうが、増税後には必ず冷え込みが来る。
 
 話を原発に戻すと、国民を食わせるために始めた政策産業なので、現在も一定の雇用を満たしている。ゆえに、いきなりの停止は経済的に好ましくない。代替エネルギー原発1基分に達したら原発を1基止めるなど、原発に替わる産業の収支がつり合わなければ、原発を停止すべきではない。
 もし、原発より代替エネルギーの生産が低ければエネルギー不足になるし、雇用が原発を下回れば失業者が増える。それを我々は我慢できるだろうか。
 ナンセンスではあるが『カー・クーラー・カラーテレビ』や携帯電話やパソコンを捨てて、エネルギー的にも生活レベル的にも「三丁目の夕日」の様な昭和30~40年代に立ち帰る勇気を原発即時停止派の人は持っているのだろうか。それとも、原発に匹敵する雇用のアイディアを持っているのだろうか。巨大産業の転換を図るのは非常に難しく、気分や雰囲気でできるものではない。
 
原発事故は急激な危機を生むが、失業は緩慢な危機を生む。』のが私の結論である。