なぜ人間は物に感情移入するの?

 チョンガーの頃、新聞のトピックス欄に『愛車の墓』を作ったというアメリカの出来事が出ていました。犬や猫などの愛玩動物ならともかく、自動車という機械の墓をなぜ作ったのだろうと不思議でした。
 とはいえ、人間には老若男女を問わずに自分の持ち物が粗略に扱われると腹を立てます。所有物には自己の延長として愛着を感じているからでしょう。特に、自動車は移動手段であるだけでなく、自宅の延長であり、シェルターであり、座り心地の良い座席は誰かの膝の様でもあります。ゆえに、墓まで作るほどの愛着も生まれるのかもしれません。
 
 愛着を自己の延長という距離的感覚で考えてみると、愛着の深い物ほど心理的な距離は近いと考えられます。いま改めて自分の所持品と心の距離を考えてみると、自動車やオートバイはかなり近くにあります。毎日使っているのにテレビとの距離はずいぶん遠く感じます。(パソコンはテレビより近くても自動車よりは遠いかも)
 その差は何かと考えてみると、自動車やオートバイは自分の意思で動かし、自分と共に移動するので、共同作業をしている気分になりますが、テレビは勝手に情報をたれ流すだけなので大切ではあっても、共感する気持ちは薄いかな~。
 現代の若者にとって愛着の深いのは自動車よりも携帯電話でしょうが、若者は物として携帯電話に愛着を持っているのでしょうか。私にはそうは思えません。それは頻繁に機種変更をするので、機能は愛しても機種には愛着が無い様に感じます。(パソコンもそんな部類なのでしょうか)
 
 私の今の愛車は新車で購入してから15年になります。乗換えも考えましたが、どのメーカーのカタログを見ても乗り換えたい気持ちになりませんでした。後から入手したシルバーウィングは付き合いの年数はまだ2年に満たないのですが、グイグイと私の心に食い込んできて、心の距離は自動車より近くなった気がします。(愛称も車はロシナンテだしバイクはベラドンナで馬名と人名の差にも表れています)
 二輪車は自動車よりも体感的な乗り物なので、自動車のドライバーよりも二輪車のライダーは強く感情移入するのかもしれません。
 
 私には二輪車が体感的乗り物だと強く感じた出来事があります。若い頃CB350で東名高速の酒匂川にかかる高架橋を走っていた時です。酒匂川の高架橋は高いうえに緩くカーブしているので、通過中に『あれ、水平線が傾いている』と感じたのです。(飛行機の様な感じですかね~走行車両も少なかったし)
 自動車ならば車体はカーブの外側に傾き、座席に縛り付けられている体には横Gがかるので、カーブを通過しているのを体が感じます。ところが、二輪車だと車体を傾けるので重力方向は体の軸と同じになり、遠くしか見えない風景では地面が傾いていると感じてしまうのです。