条理の死と不条理の死。

 東日本大震災でも3万人に近い人々が自然の猛威により不条理な死をむかえた。老いも若きも、男も女も、自分では意図せぬ原因で命を失った。死んだ本人も不本意ではあったろうし、身内を失った家族がそれを受け入れるのも苦しいものである。
 映画に『人間の約束』というのがあった。人間は必ず死ぬものだが、死んでいく過程は様々である。おもに死を受け入れる側の問題ではあるが、受け入れられる死と受け入れられない死があると思う。
 歳をとり、老衰や不治の病で死ぬのは残される側も死を受け入れやすい。だが、いつ死んでもおかしくない老人でも、事件や事故での非業の死では本人も受け入れがたい。
 葬儀の席で『もう少し生きていてほしかったけど歳に不足はなかったね~』などと言われる高齢者であれば、家族も早めに死を受け入れても、年端のいかぬ子供の死は、たとえ不治の病であっても受け入れがたい。
 なぜ死に対して受け入れやすい死と受け入れがたい死があるのだろうか。死んでいく本人が死を受け入れるか否かを確認する方法はないが、残された者が死んだ者に代わって『仕方がない』と納得できるか『こんな事では死にたくない』と感じるかの差ではないだろうか。たまには『こんなアホな死に方をして』とあきれられる死もあるだろう。
 
 さて、死ぬ本人に死を受け入れる意思があるかどうかという問題では、条件さえ揃えば死を受け入れるし、私自身やすやすと死を受け入れた体験がある。
 17~8才の頃、夏の終わりに友人達と海に行き、波が高いにもかかわらず全員でエアーベッドの様な大きな浮き袋につかまって海に入った。すると、大波が7回続けて襲ってきた。ガボガボと海水を飲み、顔が水面に出ても次の波が来てまた水を飲み息ができない。段々意識がぼやけてきて7回目には腕の力が抜けて、浮き袋を抱いている腕が外れてしまった。友人が腕をつかんでくれたし、8回目の波が来なかったので死なずにすんだ。
 この時は、体がひどく重く感じ浮き袋を掴み直す事もできなかったし、心はすでに『苦しすぎる。死んだ方が楽だ。』と死を許容していた。友人のおかげで助かったものの、しばらくは苦しくて苦しくてどうにもならなかった。誰しも頭が痛いという経験はしているだろうが、その時は脳味噌が苦痛にもがいていた。いくら息をしても酸素不足の脳味噌の苦痛は消えず、元に戻るのにかなり時間がかかった。
 歳をとってから本で読んだら、窒息で息が回復しても苦しさはなかなか回復しないと書かれていた。私もそれと同じ経験をしたわけだ。
 楽になれるならと死を許容した体験でした。若さゆえの早すぎる結論だったかもしれません。今なら気絶するまでもがくと思います。
(若さよりバカさ目いっぱいのいさぎよい?死の決断でしたね~)