藤原先輩の妹はパリで遊学中。

 パリでの先輩の肩書きは『調査室長』で俺は『調査主任』となり、各種会議に出席したり、多くの人と会ったりと仕事は多忙を極めた。
 特にスイスには頻繁に出かけ、時にはドイツやイタリアにも足を伸ばした。そのほとんどが藤原先輩の個人的なつながりによる交際だった。先輩が会う人達は財界や政界に影響力を持つ人物であり、銀行という仕事の後ろ盾ではなく、藤原先輩の血筋のつながり。すなわち、日本のエスタブリッシュメントとヨーロッパのエスタブリッシュメントの親交であった。
 そんな話し合いでは相手から私は外に出る様に言われる事もあったが、先輩は俺の事を『この者は私の腹心であり、私が不在の時にはこの者が判断する。』と紹介し、必ず俺を話し合いに参加させた。時に、相手が俺を試す様に質問を投げかける事もあり、俺の返答によっては『実務はその様に行われる。』などと先輩に付け加えられた。
 パリを離れるというのは相手に気を使ったお忍びの行動であり、情報秘匿のために俺がドライバーを務めるだけでなく、俺は先輩と秘密を共有する腹心の部下だが、俺の返答に先輩が言葉を付け足した時には、帰りの車の中は説教部屋になり、先輩の考え方の根本を叩き込まれた。
 そんなこんなの公私の区別も判然としない情報収集に忙殺され、クリスマス時期になってやっと休める時がきた。
 
『青木。クリスマスイブの予定は決まっているか。』
「別にありません。忙しくて彼女を作る暇もありませんでしたから。」
『嫌味か?。』
「先輩に嫌味なんて言いませんよ。命を預けたつもりでいますから。」
『クリスマスイブは私に付き合え。』
「判りました。」
 
 たったそれだけの会話で、エミ探しでもしようかと思っていた予定は消えた。そして2日後、俺は先輩に10区のシェ・ミッシェルに連れて行かれた。フロアー係りに案内された席には若い女性の先客がいて、胸の前で手をわずかに振り、微笑んだ。
(誰なんだろう?まさか先輩のパリの愛人ではないだろうな?)
 
『青木、妹の紗綾子だ。紗綾子、私の右腕の青木君だ。』
「初めまして。先輩のお世話になっている青木賢です。」
『お初にお目にかかります、妹の紗綾子でございます。お見知りおきをお願いします。』
「丁寧なご挨拶、恐れ入ります。」
『いや、ずいぶん簡略な挨拶だ。』
『お兄様の右腕なら形式的な挨拶はいらないでしょう。そう思いますでしょう青木様。』
『ところでお兄様。お義姉様はそろそろパリにおいでですか。』
『日本で年を越して、親戚に新年のご挨拶を済ませてからになる。1月下旬かな。』
『青木。紗綾子はパリの大学に行っている。半分遊びだがな。』
『遊びなどとひどい事を言わないでください。お兄様。』
「そうですよ。先輩。」
『あはは、2人から反撃されるとは思わなかった。』
『さ~て、シャンパンにしよう。クリスマスイブだからロゼにした。いいな。』
『青木様。兄は意外と縁起かつぎで赤系の色が好きなんですよ。』
「エエッ、気づきませんでした。」
「いえ、先輩はそんな方ではありません。何事も理詰めですし。」
『紗綾子。2人で私の内緒話はやめなさい。しかも悪口など、はしたない。』
「すみません。先輩。」
『お兄様。右腕ならお兄様の事を知らないはずはありません。ネエ、青木様。』
「恐れ入ります。汗をかくクリスマスイブですね。」
『いや、私も紗綾子には負けるんだ。それでは、乾杯。』
 
 先輩と紗綾子さんはシャンパングラスを胸の前に持ち視線で乾杯の間合いをはかっている。俺もそれにならってグラスを持ち、先輩が軽くグラスを持ち上げ、紗綾子さんと俺もグラスを気持ち持ち上げ、先輩に少し遅れて静かにシャンパンを飲んだ。メリークリスマスと叫ぶ事もなく、グラスを合わせる事もない静かな乾杯だった。
 食事を始めてからの話題は世界経済から国際政治にまで広がり、紗綾子さんの博識と5ヶ国語を話せる才媛ぶりを知った。しかも、英語は英国留学中に身につけたクイーンズイングリッシュだった。俺は、藤原紗綾子という女性が天皇家にも嫁げる女性として育てられた事を理解した。
 紗綾子さんは、どちらかといえば古風な卵形の顔立ちで個性に乏しい印象がする。しいて例えるならお公家さん顔とでもいうのだろう。背丈も小さくはないが、肉感的なメリハリボディーとはいえない日本人体形だった。
 食後の歓談も終わり、先輩が妹を送るというので、俺はクリスマスイブの喧騒の中を歩き、先輩がなぜ俺を出来すぎの妹に会わせたのか考えながらアパルトに戻った。今年は少しめげるクリスマスイブになったと思いながら、机の上のグラスに赤ワインをなみなみと注いで一気に飲み干し、またなみなみと注ぎ足した。
 その時、紗綾子さんの言った『兄は縁起担ぎで赤が好き』を思い出し、反射的に2杯目のワインも一気に飲み干した。