理想と現実の狭間。

 『お題目』とは日蓮宗の『南無妙法蓮華経』の事ですが、今は広く用いられる言葉になっています。別の言い方をすれば『理念』とか『理想』とか『目標』とか『正論』と同じ様な意味になるのでしょうか。でも『お題目』には若干の軽蔑の意味が含まれている気がします。
 お題目は絶対的に正しくても、社会的には意外と疎まれている気がします。何ででしょう。絶対に正しいので反論できないから?。それとも、お題目を唱える者に胡散臭さを感じるから?。皆様もお題目にはちょっと反発を感じる事はありませんか。
 私は、お題目に反発したくなるのは、お題目で目の前の困難が解決できないからだと思います。腹が減っている時に『米を作れ』とお題目を言われても空腹はおさまらないし、はるか彼方の目標を指し示されても、当惑するだけで腹の足しにはならないのです。
 私はお題目を語る人には、そこに至る方法も話してほしいと思っています。私がサラリーマンだった時に方法論の伴わないお題目を聞くと、いつも『ネコとネズミ』の童話を思い出しました。ネコの首に鈴を付けるという『お題目』に異論はありませんが、(どんな方法で鈴を付けるかの実行案が無ければ『空論』でしかない)と腹の中で毒づいていました。
 私は仏教徒ですが、日蓮宗の信者ではないので『お題目』は唱えませんし、実務社会で働いてきたので実行案の無いアイディアも言いません。たとえ愚案であってもたたき台があればアイデアは進化し、より良い方法が見つかるのです。勿論、自分にできない事は家族にも無理強いしませんし、今も家長には率先垂範の義務があると信じています。
 そういえば、敗戦色濃い時期に『大和魂』で押し通した馬鹿軍人がいたそうです。神風攻撃が長期育成したパイロットを失う無謀な作戦である事を訴えたら『大和魂で解決せよ』と言ったそうです。こんなお題目しか言えない馬鹿軍人は複座の練習機に乗せ、上空でパイロットがパラシュート脱出して、無線でガタガタ文句を言ったら『大和魂で着陸しろ』と言い返してやれと思います。でも、上下関係の厳格な軍人にはそれができなかったんですね。
 サラリーマンも似た様なものかも。長いサラリーマン人生では、時に問題を部下に丸投げする馬鹿上司と組む事もあら~な。そういう上司は結果が最初の目標と違っても成果さえ上げればご満悦になるもので、(お前の最初の方針は何だったんだ)と腹わたが煮えくりかえったものです。