立水の余地も無い?。

 恥ずかしい話だが、私は中学生になってからも辞書を引く事をしなかった。長兄とは歳が離れているので、判らない事は長兄に聞いていた。そんな事で自分で調べる習慣は育たなかった。(おかげでお馬鹿になりました)
 中学生になっても初めのうちはその習慣が抜けなかった。ところが、英語は長兄も苦手だったので最初のうちは教えてくれたけど、2年生になると英語の辞書を私に放り投げて『自分で調べろ』と言う様になり、私は辞書を引くようになった。
 国語辞典も引いた事がなかったので『立水の余地』と作文に書いたら先生に注意され、頭をポンポンと叩かれ『国語辞典で調べろよ』と注意された。国語辞典で調べると『立錐の余地』と書かれていた。今でも耳まで赤くなる思い出である。
 『立水の余地』と思い込んだ原因は当時の世相をガキ頭で感じていたからである。当時は戦後の貧乏生活で、家庭に風呂のある家は少なかった。親父に連れられて風呂屋に行くと、どうしても込み合う時間帯になり洗い場も湯船も人で一杯だった。
 人と人の間に湯船の水面がわずかに見える様な記憶が、大人の言葉の『りっすい』を自分が知っている漢字で『立水』と誤変換していたのだ。
 ここまで書いてきたら他の事も思い出した。ソニーの小型化技術にまことしやかに話されたのは『バケツを持って来い』である。集積度が高ければ、空間が少ないので商品を水に入れても泡の出かたが少ない。バケツに入れて泡が沢山でるとソニーでは笑われたという噂が巷に流れた。(多分ウソだろうけど)