8月に捧げる反戦の詩(うた)

 
  ああ弟よ君を泣く  君死にたまふことなかれ  末に生まれし君なれば  親のなさけはまさりしも  親は刃をにぎらせて  人を殺せと教へしや  人を殺して死ねよとて  二十四までを育てしや
 
  堺の街のあきびとの  旧家をほこるあるじにて  親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ  旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ  君は知らじなあきびとの  家のおきてに無かりけり
 
  君死にたまふことなかれ  すめらみことは戦ひに  おほみずから出でまさね  かたみに人の血を流し  獣の道で死ねよとは  死ぬるを人のほまれとは  おほみ心のふかければ  もとよりいかで思されむ
 
  ああ弟よ戦ひに  君死にたまふことなかれ  すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは  なげきの中にいたましく  わが子を召され家を守り  安しときける大御代も  母のしら髪はまさりぬる
 
  のれんのかげに伏して泣く  あえかに若き新妻を  君わするるや思へるや  十月も添はで別れたる  乙女心を思ひみよ  この世ひとりの君ならで  ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ
 
 
 
 私の心の底には、与謝野晶子のこの反戦の詩しか沈んでいません。この詩には戦争の不条理が集約されています。ところが、この詩が発表されると轟々たる非難が起きたそうです。それも、与謝野晶子と同じ文人や、文化人からの非難が大きかったそうです。
 思慮深く教養人であるはずの文人、文化人ですが、それらの多くの人々が昭和の日中戦争当時でも戦争賛成派だったといいます。まして明治時代。反戦だけでもけしからぬ事なのに、天皇を侮辱する詩までが含まれていれば非難は当然だったのでしょう。