人はなぜ人を見殺しにするのか。

 『いけにえ』といえば、生き物を生きたまま神にささげる事であり、家畜であれ人間であれ、神の前でその命を奪い捧げる儀式である。命は尊いものだから、それをささげて神に服従と誠意を示す行為だと思う。
 私は『いけにえ』を野蛮でアホな事だと思っているが、この歳になると、生贄に似ている『人柱』の事は何となく理解できる様になった。
 人間の生活形態により『狩猟民族』『牧畜民族』『農耕民族』などと分類し、常に獲物を狩って命を奪う狩猟民族の方が野蛮で、農耕民族の方が平和的だと教えられてきた気がする。だが、本当に野蛮で乱暴なのは農耕民族だと思う。
 農耕民族は農地という不動産を所有しなければ生きていけないし、作物の生長にも時間がかかる。そして不動産は持って逃げる事ができないから、農耕民族は自然発生的に耕作者と戦闘員に分かれ、戦闘員は農地を守るために人殺しの腕を磨いて支配者となっていった。
 支配者が城を築く時などに人柱という儀式を行う事もあったらしいが、本来の人柱は農民が自主的に行ったのが発祥だと思う。現代でも洪水などで堤防が決壊しそうになると、土嚢を流れに放り込んで決壊を防ぐ。
 とはいえ、ただ土嚢を投げ込んでも流れが強ければ水はいとも簡単に土嚢を押し流してしまうから、強固にするためには杭を打ち込んでそこに土嚢を積み上げる。水の流れに杭を打つには、誰かが流れに入って杭を押さえ、その人もろとも杭を打ち、土嚢を投げ入れて堤の決壊を防ぐしかない事がある。
 私は、この様な農民の自発的行為が人柱の発祥だと思っている。だが、元は同じ農民だったのに、戦闘員になった権力者は何の意味もなく単なる呪術的な意味しか持たない『人柱』を行い、死の恐怖で農民を支配するための見せしめに利用した気がする。
 人間の自然発生的な行為も時が経つうちに意味を忘れ、権力者の支配の手段となるのが人間の歴史の様である。
(もう一つのHPに書いた『隣組』なども『人柱』の変化に似ている)